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言葉

2016年9月16日 (金)

姥捨て山の風習から生まれた言葉

江戸時代までの岩手県は北上市を境に伊達藩と南部藩に分かれていたわけだけれど、冷害に苦しむ農村では、口減らしのためにお年寄りを山岳地帯に連れて行って置き去りにしてくる姥捨ての時代あった。旧伊達藩や旧南部藩に鎮座する標高の高い山に行くと、姥捨て河原や姥捨て原などという地名が今も残っており、当時の過酷な農村を歴史を垣間見ることが出来る。

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上の写真は遠野のデンデラ野の写真だけれど、遠野物語によると、ここも姥捨て山としてお年寄りが捨てられた場所として語り継がれている。

ところで僕が小さい頃に、近隣のお年寄りは田んぼや畑に出かけることを、「墓立ち」、田んぼから帰ることを「墓上がり」と言っていた。うちの祖父や祖母もよくこの言葉を使っていたので、覚えていたのだが、後にこの言葉の意味を民俗学の本で知った時の衝撃と悲しみは大きかった。

姥捨て山に連れられて行ったお年寄りが、息子や嫁の田んぼや畑が気になって、命尽きるまで姥捨て山から畑や田んぼに通い詰めて作業をしたことから生まれた言葉なのだそうだ。

つまり姥捨て山を墓場と見立て、そこから田んぼに行くので墓立ち、田んぼから姥捨て山に戻るので墓上がりと言ったわけだ。この言葉の真意を知った時に、思わず涙がこぼれたのを覚えている。

これほど哀しい言葉を僕は知らない。

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2016年6月 9日 (木)

植物は人間の言葉や感情が分かるのかもしれない

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震災の翌年に芽を出した野バラが見事な花を咲かせている。この野バラ、洗面所のすぐ近くに芽をだした野バラで、毎日僕が「おはよう」と声をかけてきた。

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一方こちらも同じ年に芽を出した野バラで、門口に咲いたものだ。日当たりや条件はこちらの方がいいはずなのに、まるっきり勢いが違う。

植物は人間の言葉や感情が分かるのかもしれない。

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2016年5月29日 (日)

希望と欲望は違いますね

中学生の皆さん、中間テストが終ってホッとしているかと思います。しかし残念ながら、返ってきた答案用紙をみて愕然としている人もいるかもしれませんね。
いつでもどこでもご相談に乗ります。ご連絡をください。

ところで、これから中総体の練習がハードになりますね。運動会が終って、中間テスト、そして中総体が終ると期末テスト。息つく暇がないような忙しさです。

忙しいからこそ、計画は大切です。勉強する時間をキープできない人は、自分の日常を振り返ってみてください。ゲームの時間はどうですか。スマホを握っている時間はどうですか。テレビを観ている時間はどうですか。自己管理を出来ないのは、欲望に負けているからです。

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欲望というのはストレスの主要な原因になります。希望と欲望は違います。ちょっと辞書で調べてみればわかりますが、欲望というのはちょっと身勝手ですよね。まあ生きて行くバイタリティーにはなるのですが、幸福の王道ではないですね。

希望はどうでしょう。明るい感じがしますよね。でも努力は苦手だという人には、ちょっと虚しい響きがしませんか。強制されることが嫌いな人は、自己願望が強い人です。ただしこれも一歩間違うと我儘な性格が全面に出てきますので要注意です。

希望や夢と言うのは、継続する意思があって成就します。思い続ける根気とタフさが必要です。その思いを邪魔するものとは、ちょっとの間決別してはどうでしょうか。ちなみに僕は15歳の時から10年間ほどテレビと決別しました。自分の人格形成にはとても役立った決別だったと今も思っています。

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2015年12月12日 (土)

ヘンリーという経済用語をご存知ですか

まず「ヤッピー」(若い都会派プロフェッショナル)が現れ、続いて「ディンクス」(子どものいない共働き夫婦)」が出現した。そして今度は、経済的にゆとりがある1980年から2000年までに生まれたミレニアル世代の「ヘンリー」(Henry:high earning not rich yet=まだ富裕層とはいえない高所得者)の登場だ。

アメリカ合衆国国勢調査局によると、ミレニアル世代は1982~2000年に生まれた若年層で8310万人。このうち44.2%が非白人の少数派となり、ヒスパニック系がこの少数派の半数にあたる50.2%を占める。
(東洋経済オンライン)

塾で教える仕事をしていると、何が大変かというと、新しい造語に対応する条件反射みたいなものを鍛える努力である。時代によって、刻々と変わって行く風潮や経済の流れが、教科書にも様々な変革をもたらし、受験に登場する言語も多様化する。

ミレニアル世代という言葉は知っていたけれど、ヘンリーなんていう単語は、固有名詞であること以外まったく僕のボキャブラリーにはなかった。

理科を教えていてもそうだな。突然太陽系の惑星から星の名前が削除されたり、大腸の働きの表記が変わったり、教科書が改訂されるたびに問題集や回答集を訂正しなければならない。

それが仕事なのだからしょうがないけれど、どうも記憶力のペースが落ちてきた気がする。いや気がするどころではないな。

ところでうちの息子たちもヘンリー世代ということなのだが、僕ら夫婦の老後を見てくれる余裕なんてあるのかな。日本は厳しいか・・・

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2015年10月29日 (木)

勉強が出来る出来ないは個性だよ

学習障害という言葉がある。簡単に言ってしまえば物事を理解する能力が通常の人より劣っているということなわけだけれど、はっきり言って障害という表現はおかしいんだよね。

なんでもかんでも障害という言葉を使えば、指導の責任を逃れられると思うのか、教育現場では頻繁に使われる言葉だ。このブログで何度も繰り返して来たけれど、平均的な人間とか、能力というのは言ってみれば、僕らが文明の中で勝手に位置づけた幻想であって、人間の本質を何も語ってはいないんだよね。

極端な意見になるかも知れないけれど、学習能力の差を障害と言ってしまうならば、障害の無い人なんていないと思うんだよね。例えば、野菜を食べれないのも障害、僕のように泳げないのも障害、音痴なのも障害ということになってしまうんじゃないかな。

能力の差は個性だと思うよ。

よく暗記力がすごくていいねなんて言うけれど、記憶を消去できないのも言ってみれば障害で、そのために神経を病んでしまって、ドロップアウトって人も多いんだよね。

自立して生きて行けないのは大変だと言われるけれど、自立ってなんだろうね。他人に迷惑をかけないことかな。それとも自分の食い扶持を稼ぐことかな。曖昧だよね。自立って愛されて生きることだと僕は思うな。

経済的な自立ばかりを問題にするあまり、愛がないがしろにされているんじゃないかな。

勉強が出来る出来ないは個性だよ。運動能力もそうだ。そう思えば、そんなに苦悩することはないね。自分のできる範囲で生きて行くことって、実はとても有意義なことなんじゃないだろうか。そうじゃないかな。

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2015年3月27日 (金)

退塾生の突然の訪問

子どもと言うものは、不用意に言葉を発する。大人もそうかも知れないが、大人の場合はその言葉の裏側に何かしらの意図を持っているので、まだ子どもと違って対処がしやすい。

昨日僕が自習室で愛妻弁当(笑い)を食べていると、昨年の秋に退会した男子生徒がやってきた。受験前の秋に退会する受験生というのも、僕の塾では珍しいものだから、彼の突然の登場に意表を突かれた

高校に合格したことを報告に来てくれたのはとても嬉しかったのだけれど、途中でやめて行った意図がいまいち理解できなかったものだから、いろいろ話を振ってみた。

途中退会した生徒に発する言葉ではないと思ったけれども、部活の後輩や友人で塾を探している生徒がいたら、僕の塾を紹介してくれないかなと言ったところ、こんな言葉が返ってきた。

『誰もこんな塾なんて来ないですよ』

さすがの僕もちょっとムカついたので、春期講習の午後の部が近づいてきたので、その後無視していたら、彼も指導室についてきた。

昨日の午後はたまたま生徒がいっぱいで、次から次へとやって来る生徒にたじろいだのか、突然やってきたのと同様に突然帰って行った。

春期講習など閑古鳥が鳴いているのだろうと思って、冷やかしにきたのだろうか。それとも彼に対して何か大きな勘違いを僕はしていたのだろうか。

彼は僕の塾に来る前は、大手のフランチャイズ塾に通っていた。僕の塾をやめたのち、また別の塾に行ったのだろうか。あえて聞かなかった。

『誰もこんな塾なんて来ないですよ』という言葉の意味を、どう咀嚼したらよいのか昨日はずっと考えていたかねごんである。落ち込むことはなかったけれど、彼の意図が読めない自分の不甲斐なさにちょっと自分自身が戸惑っていた。

ちなみに昨日の彼は、僕の塾に通い始めた時は、前にいた塾を散々けなしていた。自分の不甲斐なさをいつも誰かのせいにして生きていくことは、ストレスがなくていいかも知れない。しかし、信頼とか信用という言葉とはかけ離れた人生になって行くことも確かだろうと思う。

昨日はいろいろと考えさせられた。

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2015年1月17日 (土)

社会のシステムに自分を合わせて行くことだけに疲弊していく人生だけは、僕は御免だな

実を言うと震災以後、東大出の官僚や研究者が書いた著作を読むことを拒絶してきた。

この気持を言葉で表すならば、面白くないという言葉に凝縮できるだろうか。

努力の人間は大好きだけれど、天才肌の人間は苦手だ。当たり前のことを当たり前のようにやってのける人間を僕はあまり信用しない。ひねくれた人間だ。

政治家も科学者も教育者も、いわゆる出来る人間を心のどこかで僕は疑っている。出来る人間がしっかりしていれば、こんな格差社会が生まれる土壌は育たなかったはずだ。

若者の3分の1は正社員になれず、年収400万以下の家庭のこどもの大学進学率は30%を割った。今日のテレビはセンター試験の話題をずっと流しているが、この映像を苦虫を噛み潰した心境で見ている若者も多いはずだ。

優秀な人間に何も責任はないのだけれど、僕はひねくれているので、面白くないのだ。

霞ヶ関で、日本のコアーを操作している官僚のことだけを言っているのではない。貧すれば鈍する人間の害などというものは、取るに足りないと思っている。問題は権力を持った人間の傲慢さだ。学歴があって、頭がいい人間が利己的になった時こそいい迷惑だ。

凡人は言葉に取り込まれ、しっぽを振ってしまう。生きるために。

そうならないように勉強しろよ。のし上がれよという大人は多いけれど、いつの世もそういった言葉にうつむく若者がいる。

社会のシステムに自分を合わせて行くことだけに疲弊していく人生だけは、僕は御免だな。

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2014年4月24日 (木)

英語指導の是非が巷で大騒ぎ

最近は英語指導の是非が巷で大騒ぎ。やれ英語オンリーの指導でなければ英会話力は育たないとか、英文法はやっても無駄だとか、英語辞書は役に立たないから買うなとか、よくぞ次から次へと言いたいことを並べ立てて来る。

外国人から英語を学ぶなとか、構文をやれば英語は飛躍的に理解するとか、英語は聞き流すだけでいいとか、本屋さんの外国語コーナーの新刊本の帯を眺めるだけでも頭がクラクラして来る。

僕も一応は、塾で30年間大学受験や高校受験の英語指導に携わってきた。そして今年からは短大でも英語を教えている。僕らの世代は、英文法を学んで英語力を培ってきた世代だ。英文法は役に立たないと言われて久しいが、僕は英文法は必要だと思っている。

例えば Tom asked  Nancy  to  come back  at once. という英文があるとしよう。意味は中学生でも十分わかるだろう。トムはナンシーにすぐに戻って来てくれと頼んだ。ぐらいの意味になる。

TO不定詞以下のto  come back  at onceの意味上の主語はNancyだ。このNancyという固有名詞を表面上の主語ではなく、TO不定詞の意味上の主語だと考えるのは、いわゆる学校英文法の考え方である。

つまり表面上の全体の主語Tomに対してNancyを内側の主語と捉える考え方を、現代言語学ではゼロ代名詞(ゼロアナフォラ)と言う。内側の文の主語であるNancyの形態素(言語学の用語で意味を持つ最小の単位)が表層を持たないで統語論上で存在すると考える。

Nancyは意味上の主語ではなく、統語論上の主語なのである。しかし主語ではあるが、表層を持たないもしくは形態素的実現がされていない主語であると分析される。これは現代言語学の統語論に於けるコントロールという概念で、askedの目的語であるNancyとTO不定詞の意味上の主語であるNancyは単に固有名詞が同じというだけではなく、まったく同じ存在物であるという制約が生まれるという分析になる。

主語がないということと、主語が存在するけれど、主語の性質の形態素がないという認識は、異なる認識なのである。

きっと僕の説明は僕の能力不足で、多くの方々に理解してもらえないかもしれないけれど、こういった構文上および文法的統語論が構築されないと、機械翻訳や人口知能システムの翻訳技術は作れないはずなのである。

言語論と会話力は一致しない学問かも知れない。一流大学の英語学の教授がまとまな英会話が出来ないという批判がある。しかし英語学は大切な学問だ。人間の行動学や脳科学における言語学の基礎になる学問だと僕は思っている。

英文法をやっても英語は話せない使えないという一般論は、僕は賛同できない。このブログで何度も述べてきたが、僕の中学校から高校1年までの英語力はひどかった。ほぼThis  is  a  penの世界のまんま高校生になってしまった感がある。

そんな僕を救ってくれたのが英文法であり英語構文の参考書だった。現代英語の最先端を行っている人たちから見れば、化石のような英語の勉強の仕方だろうと思う。

辞書を使って英文を読むなんて、時間の無駄だという英語指導者さえいる。◯◯メソットなどと銘打って、ボカスカ本を売上げて印税をしっかりゲットしている自称英語通も多い。

しかしあえて言わせてもらう。やはり英文法は英語力の基礎であり基本だ。外国に行く金がなくても、高額な英会話スクールに通うことが出来なくても英語は伸ばせる。英文法と英文の多読だ。インターネットで安い英語の本はいくらでも買える。

高校や中学校の英語が、英会話学校の様相を呈してきている。僕はそれはそれでいいことだろうと思う。しかし英文法を教えない英語指導は日本に於いてはまだまだ時期尚早ではないろうか。

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2014年4月 3日 (木)

魔法の言葉

このブログで何度か取り上げてきたテーマだけれど、教育の目標はお金をいかに稼ぐとか、地位を登りつめるかではなく、人に愛され運に恵まれる生き方を伝授することにあると僕は思っている。

僕はお金を稼ぐことは不得手だし、財産を所有しているわけでもない。普通のダメおやじである(・・笑い)。

ただ自分では運の強い人間だと思っている。崖っぷちに立った時に、何度も何度も救いの手を差し伸べてもらった。

最近多くの書籍でも取り上げられる事が多いが、『想いは実現する』という言葉ほど、人生を彩る魔法の言葉はない。自分の未来を明確にビジュアル化出来る人間が自分の運を切り開くことが出来るようだ。

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何気ない日常の奇跡は頻繁に起こる。その奇跡を目にできないのは奇跡を否定するからだ。小鳥のさえずりの中にも、風のそよぐ瞬間にも、生きるヒントが隠されている。

地球上のありとあらゆる存在物は、その者達が発するイメージでできあがっているように思える。もちろん人間もだ。

僕らは謙虚にまわりを見渡さなければならない。自分の周囲が、自分の生活が、想いの反映であることに気づくんじゃないだろうか。

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2014年3月25日 (火)

言葉の力

「◯◯をやろうと思う」という言葉は決して成就しない。なぜなら「やろうと思う」という言葉は言い訳だからだ。

「やりたいと思う」「やりたいと考えている」という状況が継続するだけで、現実が動いて行かない。

「◯◯をやっています」「私は実現しています」

このような言葉に変えると、望むことが実現していく。

おためしあれ。

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