最近は英語指導の是非が巷で大騒ぎ。やれ英語オンリーの指導でなければ英会話力は育たないとか、英文法はやっても無駄だとか、英語辞書は役に立たないから買うなとか、よくぞ次から次へと言いたいことを並べ立てて来る。
外国人から英語を学ぶなとか、構文をやれば英語は飛躍的に理解するとか、英語は聞き流すだけでいいとか、本屋さんの外国語コーナーの新刊本の帯を眺めるだけでも頭がクラクラして来る。
僕も一応は、塾で30年間大学受験や高校受験の英語指導に携わってきた。そして今年からは短大でも英語を教えている。僕らの世代は、英文法を学んで英語力を培ってきた世代だ。英文法は役に立たないと言われて久しいが、僕は英文法は必要だと思っている。
例えば Tom asked Nancy to come back at once. という英文があるとしよう。意味は中学生でも十分わかるだろう。トムはナンシーにすぐに戻って来てくれと頼んだ。ぐらいの意味になる。
TO不定詞以下のto come back at onceの意味上の主語はNancyだ。このNancyという固有名詞を表面上の主語ではなく、TO不定詞の意味上の主語だと考えるのは、いわゆる学校英文法の考え方である。
つまり表面上の全体の主語Tomに対してNancyを内側の主語と捉える考え方を、現代言語学ではゼロ代名詞(ゼロアナフォラ)と言う。内側の文の主語であるNancyの形態素(言語学の用語で意味を持つ最小の単位)が表層を持たないで統語論上で存在すると考える。
Nancyは意味上の主語ではなく、統語論上の主語なのである。しかし主語ではあるが、表層を持たないもしくは形態素的実現がされていない主語であると分析される。これは現代言語学の統語論に於けるコントロールという概念で、askedの目的語であるNancyとTO不定詞の意味上の主語であるNancyは単に固有名詞が同じというだけではなく、まったく同じ存在物であるという制約が生まれるという分析になる。
主語がないということと、主語が存在するけれど、主語の性質の形態素がないという認識は、異なる認識なのである。
きっと僕の説明は僕の能力不足で、多くの方々に理解してもらえないかもしれないけれど、こういった構文上および文法的統語論が構築されないと、機械翻訳や人口知能システムの翻訳技術は作れないはずなのである。
言語論と会話力は一致しない学問かも知れない。一流大学の英語学の教授がまとまな英会話が出来ないという批判がある。しかし英語学は大切な学問だ。人間の行動学や脳科学における言語学の基礎になる学問だと僕は思っている。
英文法をやっても英語は話せない使えないという一般論は、僕は賛同できない。このブログで何度も述べてきたが、僕の中学校から高校1年までの英語力はひどかった。ほぼThis is a penの世界のまんま高校生になってしまった感がある。
そんな僕を救ってくれたのが英文法であり英語構文の参考書だった。現代英語の最先端を行っている人たちから見れば、化石のような英語の勉強の仕方だろうと思う。
辞書を使って英文を読むなんて、時間の無駄だという英語指導者さえいる。◯◯メソットなどと銘打って、ボカスカ本を売上げて印税をしっかりゲットしている自称英語通も多い。
しかしあえて言わせてもらう。やはり英文法は英語力の基礎であり基本だ。外国に行く金がなくても、高額な英会話スクールに通うことが出来なくても英語は伸ばせる。英文法と英文の多読だ。インターネットで安い英語の本はいくらでも買える。
高校や中学校の英語が、英会話学校の様相を呈してきている。僕はそれはそれでいいことだろうと思う。しかし英文法を教えない英語指導は日本に於いてはまだまだ時期尚早ではないろうか。
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