作者の意図と問題作成者の乖離
ブログを20年間毎日書いてきて思うことだけれど、自分が書いた文章を少ない人数ながらも全く見知らぬが読んでくれているという現実に、不安と言うよりも一種の快感みたいなものを覚えてしまうのは、ブログ病だと思っている。
病気だから20年も続けて書いて来れたのだと思う。
ガキの頃から勉強は大嫌いだったけれど、唯一本を読むことと文章を書くことだけは好きだった。しかし、国語のテストの点数は悪かった。
かっこよく言えば、深読み過ぎて、余計な解答をしていたのかもしれない。作者の意図を読み取れ的な問題は苦手だった。
作家が文章で伝えようとしていることに、いちいち確かなる意図があるのかなと思ったりする。意外と行き当たりばったりの感覚や感性で思いつくまま書いたりしていて、問題作成者が勝ってに後付け的な解釈をしていることってあるのではないだろうか、などと高校で文学国語を受け持っている僕は思うわけである。
ある人が読んで号泣するような一文が、他の人にとってはくだらない駄文に思えることって多々ある。これは音楽でも演劇でもそうだ。でも仕方ないことだと思う。当たり前のことだけれど、みんな生きてきたストーリーが違う。
国語の読解も相手の精神性を理解するのも、相手は自分とは違うんだというその乖離を認めることから出発しなければならないと思う。
ねプーチンさん、トランプさん。
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