理論のすり替え
どうも世の中のいじめの定義がおかしい。定義がおかしいから、いじめられる側にも責任があるなんて言う無茶苦茶な理論が噴出したり、いじめを隠ぺいしようとする先生がいたりするわけで、マスコミ的な扇動にあたふたしている現状が蔓延している。
この社会が資本主義という理念で、競争社会を継続して行くかぎり、敗者と勝者は生まれ続けるわけだから、その精神安定剤的負の衝動として、いじめを実行する人間は後を絶たない。あえて資本主義という言葉を使ったが、どんなイデオロギーに於いても負の衝動は消滅はしない。
いじめは暴力であって、それ以外の何ものでもない。暴力なのだから犯罪だという認識を世の中はしっかり持つべきなのだ。
こどもの自殺が起きるたびに、いじめの問題がクローズアップされる。なぜいじめを止められなかったのか、なぜこどものSOSをキャッチできなかったのかと。
世の中の論理は様々なすり替えによって、悪者を作り出す。まずは学校教育に対してだ。いじめがあってもいじめを隠ぺいする教師が多いのは、教師自身の学級運営の能力を問われれるからだという論理。次にいじめる人間の家庭環境の問題という論理。
劣悪な家庭環境で育ってしまった子どもは、他人をいじめることで、自分の存在価値を保とうとする。さもなければいじめの対象になりうる状況が生まれる。このことは教師の対応力と言うよりも、社会全体が抱える闇であって、周りの気づきの問題である。
いつも組織や集団や社会に対する責任問題としての追及がなされるが、個にたいする言及が、曖昧、尚且つ不自然だ。他人に精神的暴力を行使している人間は、間違いなく確信犯だ。その人間の責任を黙認する習慣が、今のいじめ社会を助長してしっまた。僕はそうのように考えている。
学校でも会社でもそうだけれど、良識ある意見は黙殺され、声が大きく押しが強い人間の意見がゴリ押しされる。
「はっきりものを言いなさい!」この言葉ほど嫌いな言葉はない。この言葉を他人に発する人間は、きっと人に対する想像力が欠如しているのだろうと思う。そしてこういった言葉を間違いなく暴力だとは思っていない。
そうりゃ誰だって、自分の思っていることを口にしたい。しかしそれが出来ない心情があるのだ。寄り添う優しさが欲しい。
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