孤独との妥協
東日本大震災以降、大験セミナー校長とは名ばかりで、ずっと1人で塾生の指導を行なってきた。多い時は4人の講師の先生に指導アシスタントをお願いしていたけれど、ここ15年ほどは自分1人で十分なキャパの生徒数なわけで、やんごとなき経営状況にじっと手を見るの心境である。
生徒がいるので物理的には孤独ではないけれど、仕事場でふと精神的な孤独を感じることはある。
日々送付されてくる請求書を見てはため息をし、年度途中で退会する塾生がいるとまたため息をつく😮💨禿げ親父である。
個人事業主というものは、ストレスとの戦いが仕事のようなもので、日々の支払いをどうするか、いかにして収入を確保するか、受験指導以上に頭を悩ます日々である。受験指導だけに邁進できればいかに楽しいかと思うのだけれど、そうはさせてくれないのが、塾屋家業だ。
塾を始めた30歳の頃の自分と、今度の誕生日が来て年金受給者の仲間入りをする自分を比較してみるに、大きく異なったことは正直言ってそんなにない気がする。
年齢を重ねてきて、確かに体力は落ちたけれど、授業することに不自由を感じることはないし、生徒たちとのコミュミュニケーションが劣化したとも思わない。老眼になりメガネは必需品になったけれど、聴覚も空間認知力も大丈夫なようだ。
基本的に働くことは嫌いではないけれど、お金が伴わない労働はきつい。若い頃は、お金が入らなくても仕事そのものが将来への糧だった。
でも老後を射程距離にしてしまった今は、正直なところ老後の不安というものがある。自営業者ゆえの国民年金だけでは到底生活は成り立たない。今が頑張りどころなわけだけれど、その頑張りどころのベクトルが掴めないでいるのが現実だ。
タイトルに孤独との妥協と書いたけれど、幸い僕には僕を心配してくれる家族がいる。そして同時に僕を頼りにしている家族でもある。
自分と向き合うときに、どうしても孤独な自分というものと対峙しなければならない瞬間がある。自分の最終決定は自分なのだと言う声が、聞こえてくる瞬間でもある。
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