35周年にあたり
35年前の今日、僕は今の塾をスタートさせた。独立する以前は東京中野の進学塾で2年、そして岩手に戻って水沢に本部がある塾で6年間講師をやってからの独立だった。
結婚して4年。1歳になる息子がいた。
結婚後自宅から離れ、一関市内の住宅に仮住まいをしていたが、父が55歳で他界し、急遽自宅に戻り家業である農家を引き継ぎ、同時に現在の場所に塾を開いた。二足の草鞋である。
当時はバブル期後半。いやバブル崩壊直前と言った方がいいだろう。世の中がざわついていた。
東北の地方都市に於いても、バブルの恩恵があったのだと思う。低迷していた大学進学率が一気に加速した。僕が開校したのは大学受験専門の英語塾だった。
時流に乗ったのと、当時一関には大学受験専門の英語塾がなかったので、単科科目の塾としてはそれなりの需要があって順調な滑り出しに思えた。
しかし3年してバブルが崩壊して、私立大学に於いてAO入試なる推薦入試が始まり入試における英語の需要が一気に減速した。そして市内ではアメリカ人による英語教室が数件誕生し、僕の塾は一気に閑古鳥が鳴きはじめた。
一斉授業は廃止して、小学生中学生の自由教科選択の寺子屋指導にシフトした。高校生は減ったものの中学生メインの塾にスイッチし、どうにか復活をすることが出来た。
その後はリーマンショックに東日本大震災と矢継ぎ早にやって来る困難に、たじたじになりながらも、私立高校の講師をやりながらどうにか凌いできたが、新型コロナで在籍生徒数は半分になってしまった。
こうなってくると、生活を切り詰めての日常が通常化してきて、毎日通っていた喫茶店の日々が終わり、もちろんプライベートで外で酒を飲むことも皆無になった。塾が終わるとスーパーに寄って、半額になった生鮮食料品を漁る日々である。
冬の灯油代が凄まじいことになってきたので、もらった中古の薪ストーブに活路を見いだすべく薪割りに邁進したものの、草刈りと薪割りのダブルパンチで僕の腰は悲鳴をあげて、灯油代を節約するはずが整骨院の治療費で節約したはずのお金が飛んでいく始末で、一体僕は何をやっているのだろうと青息吐息。
それでも救いはあるもので、僕がこのブログで紹介した岩手六芒星がマスメディアに取り上げられ、新聞に評論を書かせてもらう経験をさせていただき、また今回は岩手朝日テレビさんで4週に渡り六芒星を特集していただき、まあ塾の経営は大変なわけだけれど、ストレス解消のイベントが増え、なんとか持ち堪えているかねごんではある。
お金が無ければ無いなりの暮らしをするまでではあるが、人生一度くらいはお金持ちの気分を味わってみたいというのが本音ではある。
そんなことを思いつつ過ぎゆく開校記念日であった。
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