たまには教育の話を
塾教師と呼ばれる仕事を40年以上やってきたわけだけれど、お金に不自由したことを除けば楽しい仕事だったと思う。
高校生になった時に英語と文学に目覚めた。それまでは全く興味がない分野だった。目の色弱がわかって自分が進みたかった理工系の道が閉ざされたと言うこともあったのだけれど、人生ってものに理不尽的な不安を感じたからだったかもしれない。
頭がいいと言うのは後天的なものか先天的なものかと言う話題がのぼるけれども、IQの点で言えば頭の良さは先天的なものだと言って言いだろう。頭の良さは両親や家系の強みと言うことになるのだろうけれど、僕に言わせれば、それがどうしたと言う感じである。
暗記力や理解力に個人差があるのは言うまでもないことだが、そのことを持ってして人間の能力を測ろうとするから面倒くさくなってしまう。
100メートルを12秒台走る中学生がいたら、将来のオリンピック候補として11秒を切ること期待するだろう。しかし15秒台で走る生徒にそれは期待しない。
実は教育の世界では、100メートル15秒台の生徒に、11秒台を期待する学習を施していることが多々ある。潜在能力を無視して目標に向かわせようとする、言わば平等教育と言う弊害がはびこってきた。ビリギャルのような本を鵜呑みにして勉強に追い込んでも、無理なものは無理なのである。
ほどほどと言う日本語があるが、教育はほどほどがいいのである。一生懸命に勉強したけれど42点だったと言う生徒がいる。結果主義の日本の教育現場では評定は2である。僕は立派な2だと思う。
僕らはいろんな評価をされて生きてきた。学校の成績だったり、スポーツ大会の順位だったり、稼ぎ出す収入だったり。恋愛対象としての評価だったり。
一人一人がこの世界を作っているピースだ。たった一つのピースが無くてもこの世界は完成しない。能力はピースの価値に反映されない。存在すことそのことが1番大切なことなのだ。
だから存在の意義をないがしろにした教育ではいけない。あいつは不登校だからと言ってほっといてはいけないし、家が貧しいから仕方がないと言って教育の機会を奪ってはいけない。
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