なぜにタワシかって?
塾の番犬ボブくんが首にタワシを巻いている。気になるようで生徒が聞いてくる。なにかまじないですか?
まじないっちゃまじないだけれど、言葉遊びみたいなもので、タワシが四つでたわわな幸せって言う語呂合わせ。
そう言うことで、今日は草刈りで疲れたので、寝ます。
明日の朝も草刈り頑張るか・・・
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塾の番犬ボブくんが首にタワシを巻いている。気になるようで生徒が聞いてくる。なにかまじないですか?
まじないっちゃまじないだけれど、言葉遊びみたいなもので、タワシが四つでたわわな幸せって言う語呂合わせ。
そう言うことで、今日は草刈りで疲れたので、寝ます。
明日の朝も草刈り頑張るか・・・
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大学生の頃に村上春樹にはまって、30代の前半頃までは、村上春樹の新刊本が出れば必ず買って読んでいた。
でも40代50代は彼の作品から卒業したと言うのか、違う触手が求められていったと言うのか、兎にも角にも離れて行った。
ところが息子次男が20代になって村上春樹を読み出し、僕の領域を既に超えた。最近彼が読み終えて茶の間に置いてある村上春樹の作品を僕が読む日常が訪れている。
今息子から借りて読んでいるのは、『街とその不確かな壁』だ。
村上の作品に登場する「僕」は、いつも非現実的な世界に入って行く。その世界は冥界のようでもあり、また過去生のある時代のようでもある。
おそらく息子が捕らえる村上春樹の世界と、僕が感じる村上春樹の世界には間違いなく世代的ギャップがあると思うのだけれど、モゾモゾと青春時代のアンニュイや不安をかき乱す精神的負荷は息子も感じているのかと思う。
兎にも角にも僕の村上春樹ワールドは、時代を超えて息子に引き継がれて行っているようだ、
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理由もなく人は人とは出逢わない。現代社会は、人間関係のストレスが多いと言うけれど、自分に関わって来る人間をどのようなスタンスで迎え入れるかで、随分と日常が違って来る気がする。
自分を客観的に見ることはとても難しいことだけれど、自分に関わって来る人間を観察することで、自分というものが見えて来る。
学校でもそう。職場でもそう。僕の所のような寺子屋でもそう。この時代のこの場所に席が隣り合わせとなる偶然は奇跡的な確率。
そこには間違いなく学びがある。何気ない会話の中に。その人の振る舞いの中に。
食べ物にも人間にも好き嫌いはある。匂いがダメ。見た目がダメ。味がダメ等々。
なぜダメなのかその理由を分析するよりも、なぜこれらが自分にやって来るのかを考えると、実は自分の進むべき道が見えてきたりする。
自分が引きつけるものに、未来を託すかどうかは別として、観察を楽しんでみることには価値がありそうだ。
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神社や磐座や龍神にただならぬ興味を持つようになったきっかけはこの龍神碑だった。宮城県金成町の金田八幡神社の龍神碑である。
東京から20代前半に岩手の実家に戻って来た僕は、家庭教師の仕事で食いつないでいた。
宮城県のとあるお宅に、高校生の英語を教えに行っていたのだけれど、その家の茶の間に金田八幡様のお札が飾られていた。その頃は神社に興味がなかったものだから、僕の苗字とおんなじ名前の神社があるなくらいで、素通りしていた。
それから僕は結婚をして父となり、脱サラして今の塾を開くことになるのだけれど、33歳頃だったろうか、夢の中で金田八幡神社の上空を舞う龍神さんの夢を見た。
そもそもその時まで、金田八幡神社に行ったこともなかったし、場所さえ知らなかった。
山道をさまよいながら辿り着いた神社は夢の中に現れた神社そのもの。そして神社の裏手に回ると、写真の大きな龍神碑が鎮座していた。
そうなって来ると、僕が龍神オタクになるのに時間はかからなかった。神社系の世界に僕の日常が加速して行った。病気のごとく。
そしてその時の夢から四半世紀の時を経て、岩手六芒星なるものを世に発表することになるのだけれど、何かに導かれたような気がしてならない。
世の中に偶然はないと言う。今過去を振り返って見ると、出会った人々、共有した多くの時間、そして導かれた多くの書物、全てが必然だったんだろうなと思う。
懲りもせず僕の旅はまだ続きそうだ。
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ついに岩手六芒星をテレビで取り上げたいただくことになった。
昨日天津木村さんをはじめとして、カメラマンさんや音声さんを含め7名の岩手朝日テレビクルーがやって来て、収録をして行った。
僕自身カメラ慣れをしていないものだから、結構かみかみのトークになってしまい、ちょっと反省。
次回は実際に、六芒星の神社を巡る取材に僕が同行して説明することになるのだけれど、エズラ的に自分でいいのかなと言う気がしないでもないかねごんである。
新聞各紙そして週刊誌ときてテレビ。あとは、月刊誌ムーが触手を伸ばしてくるのかどうか、そこが楽しみなところ。
実は僕はあまり大きな声では言えないけれど、ムーファンなんです。99パーセントは完全なホラ話だと思っているのですが、毎回1%のとんでもない真実を暴露するスピリチュアル月刊誌。そう言うの好きなんですよね。
僕の六芒星の話も、99パーセントは妄想ですが、世界を痺れさせるような1%の真実が隠されていると確信しています。笑
そう言うことで岩手の皆さま放映日程が決まりましたらご報告させていただきますので、よろしくお願いします。
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先週は病院の梯子。耳鼻科と内科。
何処かが苦しいとか痛いわけじゃない。常備している薬が無くなっての通院。
血圧の薬・コレステロールの薬・尿酸値を下げる薬。そして鼻炎アレルギーの薬。薬を飲みながらお酒をやめられないのは、単なる意志薄弱のため。それ以上でもそれ以下の理由でもない。
お医者さんに運動していますかと聞かれたものだから、草刈りをしていますと答えたら、それは運動じゃないと言われた。
このくらいの面積を2時間近くモアーで刈り続けると、万歩計は1万5000を超える。
お医者さんはやったことがないのでわからないと思うけれど、確かに労働ではあるが過激なウオーキングでもある。
だいたいこの草刈り作業を4、5日やってから2000メートル級の山に登ってもへこたれない。いいトレーニングにはなるけれど、いい加減草刈りはもうやりたくない。グレたい気分だ。笑
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僕自身、躁鬱気質で理由もなく心がダウンした時は辛い。天候にも左右されるし、その時々の経済力にもバリバリ影響される。
独身の頃はギャンブルをやることで、なんとか心の均衡を保っていた。結婚して子どもが生まれてからは、一切のギャンブルから足を洗った。
家庭を持ったことで、精神状態がかなり改善された。特に30代半ばから15年間封印していた音楽を再開したことが、自分自身のカウンセリングになった気がする。
心が病むことは誰にもあることだと思う。真面目過ぎてもなってしまうし、人間関係のストレスが引き金になって、厭世観にとらわれてしまうこともある。
僕らは努力至上主義で洗脳されてきた世代だ。頑張れば報われると教え諭された。
頑張っても報われないことがあることを、社会人になって嫌と言うほど経験させられた。人間は平等じゃないことも同様に痛感した。
世の中に氾濫する多くの嘘のために、どれほどの人間が傷ついてきたか。善良な市民の心が痛まないわけがない。
政治も教育も経済も、誰かの都合のためにいとも簡単に偽装されてきた。哀しい事実だけれど、自分の心だけは偽装したくない。
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どこかで誰かが笑っている。どこかで誰かが泣いている。地球も同じかもね。
よく地球は生きているって言われる。ガイア思想って言うやつ。そして地球と地球に住む生き物たちは地球とリンクしていると言われている。
例えば女性の羊水の塩分濃度と海の塩分濃度はほぼ同じ。身体の水のパーセンテージと地球の全体における水の保有パーセンテージもほぼ同じだと言われている。
地球上の生物は太陽の恩恵を受けて生かされている。古代から太陽信仰がなされてきたのも当然。
そして夜を照らす月も、我々人類に多大な影響を及ぼしてきた。いつも後を見せながら地球を周回している月。
後の正面だーれと言うあの歌は月の本質を歌い込んだものだと、自称プレアデス星人の僕は思っている。月の裏側には、地球人が想像を絶する秘密が隠されている。
いついつでやる夜明けの晩に♪
さて月の真実が現れるのはいつだろうか。
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岩手六芒星を発表してから7年ほどになる。発表当初は、アラハバキの磐座を信仰してきた安倍氏が、前九年の役等の中央政権との戦いのために巡らした結界ではなかったかと仮定して、この六芒星を取り上げてくれたメディアにお話したのだが、その後調べて行くにつれて歴史上のビックネームが六芒星に絡んできた。
坂上田村麻呂である。六芒星の磐座には、坂上田村麻呂が鬼退治をして岩の下に埋めたとか、岩に封印したとか、暴れる龍を封じ込めたとか、これでもかと言うくらい坂上田村麻呂の武勇伝伝説が浮上して来る。
まるで坂上田村麻呂が蝦夷討伐のために六芒星の結界を作ったかのように。
坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命したのは平安京を遷都した桓武天皇である。実は平安京は陰陽道や風水を用いた六芒星の結界が埋め込まれている。
桓武天皇が、難航する蝦夷討伐に陰陽道の結界を坂上田村麻呂に進言した経緯があったのではないだろうか。これは僕の妄想である。
東北には坂上田村麻呂が作ったと言われれるレイラインがいくつか語り継がれている。アラハバキ神を信仰した阿弖流為に対して毘沙門天をバックにして臨んだ坂上田村麻呂。
古代の宗教戦争がここ岩手で繰り広げられたと思うと、岩手六芒星を提唱した僕自身も身が引き締まる思いである。
ちなみに岩手六芒星をメディアに仕掛けたのは僕だけどね。笑
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妻と色んな催しものを自宅で行ってきた。マルシェやらコンサートやら展示会などなど。
毎回顔を出してくれる人もいるし、一度きりで縁が途絶えてしまう人もいる。
僕もそうだ。何度か訪れるイベントがある一方、予定の都合上で全くご無沙汰してしまっている所もある。
人と人が出逢うのは本当に偶然だったりするわけだけれど、見えない糸を感じる時はある。
人は出逢いそして去って行く。一瞬の縁でも一生涯忘れられないご縁もあるし、濃厚だった付き合いがある日突然終わることもある。
全ての出会いは意味があるのだろうと思う。そこで得たもの失ったもの、全てが学びであり、そして貴重な経験なんだろうと思う。
あとどれくらいの出会いが待っているのだろうか、楽しみでもあるが、正直ちょっと不安でもある、禿げオヤジである。
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YouTubeを眺めていると出てくるわ出て来るわ、詐欺的スピリチュアル映像。
出版物での勧誘が困難になったものだから、新興宗教関連の集客手段はYouTubeに移行した感がある。お金をかけた映像と音楽に思わず心を持って行かれる人も多いのではないだろうか。
20〇〇年に日本の半分が崩壊とか、地球の次元上昇がどうのとか、わけのわからない予言の類いが、垂れ流しになっている。
「死後裁きにあう」なんていう看板を至る所に貼りまくっている某キリスト教団同様、死の恐怖を煽る輩たちが後を絶たない。
死を煽られなくても、遅かれ早かれ人は全員死を迎えるからね。そして何度も書いてきたように死は終わりじゃない。
ちなみに天国も地獄もない。その人が生前培った想念がそのまま現実化するだけ。エロいことばかり考えてきた人は快楽の世界に浸るだろうし、阿修羅のごとく戦いに明け暮れた人は、死後の世界でも、戦い続けているのだと思う。
何でそんなこと言い切れるのかって?やっぱりそこはプレアデス星人のネットワークで(笑)。
地球を汚し続ける人は、来世でその責任を負わされるかも知れない。因果応報の世界は避けられない。そう言う意味では死後裁きにあうことがなくても、来世で痛い目を見るかも知れないね。
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今日高校の職員室で、「60も半ばになる爺いが、朝から夜遅くまで働いて、必死に働いているにも関わらず貯蓄も出来ないっておかしくね」と言ったら。
隣の理科の講師の先生が「世の中のシステムがおかしんですよ」とのたもうた。
普通に働いていては絶対老後は乗り越えられない。潤沢な退職金と潤沢な年金が貰える人以外は。
貯蓄に回そうと頑張っても、税金でお金が消えて行く。所得税・健康保健税・固定資産税・自動車税そして消費税などなど。
コロナ禍で自営業者は本当に大変だった。100万円の支援で国は救済したつもりだが、正直言って砂漠にバケツの水を撒いてもらったごとくで、サバイバルの日々は続いている。
コロナ前は、中総体が終わると速攻で塾への問い合わせが来たものだけれど、コロナ後は梨の礫。
そういうことで、大験セミナーをよろしくお願いいたします。
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子どもの頃に夢見ていた世界と今の世界を比べて見て、納得出来る人とそうじゃない人がいますよね。
それぞれの世代が抱えるトラウマとか、時代に対する諦観とか、そう言ったもろもろの感情的わだかまりを考慮しても、今の時代がいいのかとも思うし、思わざるを得ないのかなと考える人が多い気がします。
お金はかかるけれど、便利さには勝てないと言うのが現実ですかね。
昔は不便でした。しかし不便さゆえの工夫というものはありましたよね。貧乏という言葉が認識出来ないほどそれが当たり前で、それなりに楽しく暮らしていた気がします。
僕らが小学3年生の時に、人類は月に到着しました。そして赤軍派の浅間山荘事件が終焉すると、田中角栄の日本改造論なんていうものが始まり、日本は豊かさえの脈動が加速して行きましす。
大学を終えて数年経つと、バブルが始まり、日本中が浮き足だった。あの頃の幻想がずっと日本経済の足枷になるとは誰が想像出来たでしょうか。
時間が短縮され、余裕が生まれるかと思いきや、我々はその余裕の奴隷になってしまったかのような錯覚さえ覚えます。
コロナを境にして、また時代は変わりました。夢の世界は遠のく一方です。
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躁鬱気質の僕は、いろいろと落ち込むことが多かったし、今もそうなのだけれど、音楽をやることで、救われることは多かった。
音楽をやっていなかったら、自分は今生きていなかったかも知れない。それほど音楽の存在は大きかったし、自分にとってかけがえのないものだった。
挫折をするたびに、音楽が僕に寄り添ってくれた。
音楽を作ることも、音楽を聴くことも、ひょっとすると無駄な時間だったかも知れないけれど、この世に自分が存在するためには欠かせないツールだった。
同じように、ゲームをやって救われたと言う人もいるだろうし、旅によって救われたと言う人もいるだろう。勉強を必死にやって生きる希望を見い出した人もいるはずだ。
何が悪くて何が良いって問題じゃなくて、そのひとが生きる希望を見出せるならそれでいんじゃないだろうか。
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昨日は父の日だったらしい。^_^
中総体が終わり自宅に戻り、草刈り仕事をした僕は、夕方妻とスーパーへ。自分の好きな海の幸とお酒を買ってきて夕食。
期待はあえてしてはいなかったが、息子たちや妻からは特別にこれといったものはなく、自分が買ってきたお酒をひたすら飲んで就寝。いつもの日曜日だった。
今朝も5時起きで草刈り作業。高校に8時30分に到着。授業の前に中間テストの集計をやって、授業は夕方3時25分で終了。本日の授業はほとんどがテスト解説。
そして塾に来てこのブログを打ち込んでいる。今日は中総体の代休で市内中学校は休み。高校生は全て中間テストが終わったが、今度は中学校の定期テストがやって来る。
夏期講習の準備もしなければならないが、卓球の県大会もある。おっと忘れてた来週は岩手朝日テレビの収録もある。貧乏暇なしを絵に描いたような暮らしである。
おっと生徒がやって来た。それでは本業に突入するので今日はこの辺で。
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記憶が曖昧になってきたのは単なる年のせいじゃないようだ。毎日の晩酌で脳みそがアルコール漬けになって、浮遊し始めているのかも知れない。
物忘れが激しいのは今に始まったことじゃない。中学の時も小学生の時も、酷かった。クスリの後遺症だと思う。
小学生の高学年頃から、虫歯で歯が痛かった。歯医者につれて行って欲しかったが、我が家はその頃色んなことが重なって大変な時期で、僕の虫歯の痛みになど構ってられる状況ではなかった。
故に置き薬の痛み止めの頓服薬をほぼ毎日飲んでいた。1年以上。故にぼーとしていた。自分で言うのもなんだが、それ以前はいたって優秀な賢いガキだった。笑
まあなんと言うか、万事塞翁が馬で、そのぼーとしていた経験があったおかげで、勉強が出来ないと言う経験も出来たし、底辺を彷徨ったおかげで、子どもたちを観る視野も広がって、今の仕事に役立っている気がする。
家庭環境が人生を作って行くと言う確信は自分の経験から得た気がする。
その家庭環境というのは、実は我々が選んでんいると言うことも付け加えて、今日のブログは終わります。
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今回の中総体が、僕が指揮を取る最後の大会となる。厳しい接戦の試合だったが、どうにか予選を通過し、決勝トーナメントにて県大会の切符を手に入れた。
県大会は久慈市。生徒たちが喜んだのは当然だが、それ以上に御父兄のみなさんが大喜びだ。泊まりがけの応援が出来るからだ。
15年間の様々な思い出がよみがえって来るかと思いきや、今回の中総体はそれほどの感慨もなく、あっさりと団体戦が過ぎ去って行った。やるべきことはやったと言う満足感のせいだろうと思う。
卓球にこれほど縁がある人生が待っているとは、若い頃には知るよしもなかった。
中学時代はそれこそ、卓球馬鹿で、寝ても覚めても卓球のことばかり。その代償は大きく、受験勉強に身が入らない部活ロスの受験生であった。
母校の卓球部コーチを引き受けて5年ほどした頃だろうか。塾に不思議な現象が生じ始めた。他校の卓球部の生徒が異常なくらい入塾して来たのである。
僕が卓球部のコーチをしているなんて全く知らない生徒達だ。塾生の3分の1ほどが卓球部員と言う現象がここ10年ほど続いている。きっと卓球の神様が、僕の塾に連れて来てくれているのかも知れない。
僕が部活の指導を引退することで、卓球部率が減るかどうか、ちょっと興味があるところではある。
さて明日は個人戦だ。二日酔いにならない程度に一人で祝杯をあげて寝よう。
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高齢者の定義を65歳から70歳にするみたいな発表が先月あった。数字でごまかさないで、堂々と言ってこいや!てな気分。
年寄りに年金も医療費も払いたくないのなら、江戸時代のように姥捨山制度を復活させればいいし、もしくは年寄りの安楽死を認めればいい。
国民年金で賄える特別養護老人ホームは、申請しても3年待ちとか300人待ちと言われる。僕の母親もそうだった。金さえあればそりゃ立派な老人ホームはどこも空いていて入れることが出来るのだが、世の中の現実と理想が乖離している。
今の日本の福祉政策を見ていると、年寄りは長生きをしなくていいのでさっさと死んでくださいと言っているようなもんだね。露骨だ。
安月給で昼夜頑張っているのは老人ホームの職員。一方政治家はふんぞりかえって破綻寸前の年金制度など知らんぷりで、政治資金集めに無我夢中。
まあね。政治家さんをやっているお年寄りたちはお金に不自由してないので、入居させることができないで大変な思いをしている家庭のことなんか知ったこっちゃないよね。
老後の蓄えがないのは自己責任みたいな発想の今の日本の政治は、寒々しい限り。長年やらせてきてしまった与党の独裁政権が、やりたい放題やってきた付けが日本人の老後の生活を奪ってしまったね。
本当は黄昏時こそ楽しいのにね。
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なんかね、急にカーペンターズのこの歌が聴きたくなるのよね。以前は全くそんなことなかったのにね。
DIYリフォームした納屋cafeで一人聴くわけよ。酒を片手に。よみがえって来る映像がほろ苦いのよね。なんて言うか、「あの頃」なんて言う副詞がビンビン響いてね。
そんでねお酒が進むのよ。酔うほどにまたメロディがしみるのよね。おじさんを通り越しておじいさんだからね。
母校の卓球部の指導をしているんだけど、こないだ生徒のおじいちゃんが孫の試合を見に来てたので、おじいちゃん幾つなのって聞いたら62歳だって。僕より若いんじゃん。
うちは孫どころか息子たちが独身貴族だからね。
カーペンターズは中学生の時に聴いていた。自分がある意味1番輝いていて1番堕落していた時だったね。あれから50年近く経って、ちょっとはまともになったかなと思うのだけれど、なってねぇか。
明後日、明明後日は中総体。僕が指揮を取る最後の中総体でもある。15年間頑張ってきたよねと、誰も言わないので自分で褒める。勝っても負けても土曜の夜は酒を浴びるか。カーペンターズを聴きながら。
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最近終活なんて話をしているので、どこか悪いんですかなんて心配される。
ご飯がわりに薬を飲んでいるような僕だが、いたって調子はいい。ここ四半世紀一度も体調を崩して仕事を休んだことがないし、朝草刈り仕事をやって高校に行って、そして夜遅くまで塾をやる日々の中、十分以上に生かされている。
昨夜妻と手のひらを見せ合って、手相占いに書いてあることが正しいならば、二人とも金持ちの手相ラインがはいっているのに、お金残念ながらないよねと苦笑い。
日々かつかつの生活だけれど、楽しくやっているからいいか。みたいな結論に達し、酒を飲んで寝た。
人生は一瞬だけれど、永遠だ。矛盾するようなことを書いてしまったが、その人の持っている思考や芸術性、感性はいろんな縁を通じて未来永劫伝承されて行く。故に人生は永遠だ。
誰一人として無駄な人生などない。一人一人の言葉や想いが世界を作って行く。ある意味ごまかしが効かないのが人生だ。
これからどこまでも、人類は歩み続けて行く。いや歩み続けて行って欲しい。そのためにも、言葉と想いが隔離しない社会であって欲しいと切に願う。
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空を眺めても、巨木を眺めても、龍神さんに監視されているような気がするのは、単なる気のせい???
知人いわく、金田さんは龍神族なんですよ、と言うことらしい。自分ではプレアデス星人だと思っているのだが。笑
ところで、世の中には普通に龍神さんが見える人がいるらしい。僕は写真を撮ると龍神さんらしきものが写ることはあるけれど、残念ながらと言うのか幸いにも龍神さんは見えないし、あっち系の世界の住人も見えない。いたってノーマルな宇宙人だ。いや失礼人間だ。
ただこれは長年教師をしている方には結構あることかも知れないけれど、優秀な生徒の前で説明をしているとその生徒のクリアーな思考が伝わってくる感じがして、日頃使っていない別回路の脳が活発化し、素晴らしい解説が出来ることがある。
逆もありで、計算が不得意な生徒を前にして説明している時など、簡単な割り算が急に出来なくなって慌てることがある。ひょっとすると脳のシナプスの活動波動が人間間で行き来しているのかも知れない。
よく生徒が、質問がありますって手をあげて僕を呼ぶのだけれど、僕がそばに行って説明しようとする瞬間に「あ!分かりました」て言うことがある。僕のシナプスが読み取られているのだろうか。
塾教師生活も今年で40年になる。20年ほど前から龍神さんにロックオンされて、龍神系の神社に導かれたり、龍の名前がつく生徒が毎年入会してきたり、龍神さんパワーの恩恵を受けている。
一関の磐井の地で34年も廃業することなく塾を営んでこれたのも、僕を陰から見守ってくれている龍神さんのおかげかも知れない。ありがたいことだ。
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僕が草刈り機械を持ち出して休耕田の草を刈り始めると、必ずどこからともなくやってくるのがこの鳶。
最近は全く僕を恐れることもなく、まるで挨拶でもしているかのように、草刈りをしている僕そばに降りて来て首をコックリコックリ曲げている。
草を刈ることで、休耕田に住み着いている野鼠やトカゲが一気に鳶の視野に入って来くるようで、獲物が取りやすくなり鳶にとっては最高の狩場となるようだ。
きっと感謝をされているのだろうと思う。
鳶に好かれる爺い。ロケーション的には悪くはないが、もっと違うものに好かれたい爺いである。例えばお金とか。笑
終活にモードに入った僕は、納屋の片付けとリフォームこそ終わったが、まだまだやるべきことは山積みだ。息子たちへの負の遺産にならなように、周辺を整理しなくては・・・
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スマホを手に入れてからは、英語にしても国語にしても紙の辞書を持ち歩くことはなくなったし、使うこともなくなった。
そうなって感じることは、落ち着いて言葉について思考することがなくなってきたような気がする。一瞬で意味なりスペルが検索出来る分、頭に定着しない。
それは僕の年齢のせいもあるのだろうけれど、辞書の行間を読んで妄想する思考が消えた。
言ってみれば刹那的な思考になった。知ることと理解することが乖離してしまう。我々のような年寄りには問題はないが、若者達にはちょっと危険。いやだいぶまずい。
スマホや電子辞書の検索は便利だけれど、検索の無駄が省ける分、思考の無駄も省けてしまう。文科省の指導のもと、学校におけるタブレットの使用が普及しているが、紙辞書への回帰も必要かも知れない。
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僕が出た私立高校は、その当時までは早慶はもちろんのこと国立大学に合格する生徒は皆無だった。頑張って日東駒専って感じ。
なのに何を血迷ったのか、僕は2年生の時数名の3年生とともに東北大模試をうけさせられた。確かに国語と英語は学年でトップだったが、トップと言ったところで、授業内容は中学レベルにちょっと毛が生えたようなもの、東北大なんて当時の僕からしたら神の領域だった。
案の定、数学は一問目からちんぷんかんぷん。貴重な90分が無駄にすぎて行った。笑
大学を終えた後、東京で塾講師を始めたのだけれど、いるはいるは高学歴人間が。早慶上智はもちろんのこと、さらにその上のクラクラするような神の領域の大学出がわんさかわんさか。
今現在僕が勤めている一関修紅高校に於いても、東北大学や東京大学出の先生がいた。
高学歴の先生方と話をして僕が感じることは、学問に対してマニアックだってこと。一つのことを突き詰めて行くタイプの先生が多いね。
我々4流はこれといった取り柄がないものだから(笑)、いろんな方面に手を出して収集がつかなくなってしまう。困ったものだ。
最後に四流の極意を。
(四流で良かったなと感じること)
1.見栄を張らなくて済む。
2.伸び代がある。笑
3.謙虚でいられる。
4.四流なので過度な期待をかけられない。
以上
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高等教育の多様化が叫ばれて久しい。高校がどう変わってきたか、どのような教育目標を掲げてきたかは私学・公立それぞれの立場で違うのだけれど、根底にあるのは学力の向上と、豊かな個性の育成なんだろうと思う。
そしてその先にあるのが大学教育ということなのだが、今大学は多くの問題を抱えているのが現実だ。推薦入試による学生獲得の流れの中で、低学力の学生をどう指導して行くかに、試行錯誤している。はっきり言えば困っている。
少子化が加速する時代、私立大学は喉から手が出るくらい入学者が欲しい。しかし受験勉強をして来ない学生のレベルは厳しいと言わざるを得ない。
中学レベルの英語や数学がで出来ない学生に何を教えたらいいのか、教える側は大変だ。
短大や高校で教えていて意表をつかれるのは、教科を理解しないそのことよりも、分からないことに対する自己嫌悪の強さだ。
だったら勉強をしたらどうかと思うのだけれど、成績が下位の生徒たちは、出来ない自分に甘んじている。それが当然のごとくに。
自分のポジションはここだもんねと言うその諦観の裏にあるものは、努力に対する不信感のような気がする。
頑張ったらいい暮らしが待っているとか、努力は裏切らないなんて言うフレーズは、受け入れてはもらえないようだ。
バブル崩壊後の日本社会は若者達に希望ある社会を提示して来なかった。そのツケがここに来てさらに加速している気がする。
結婚願望がないのもそうだし、ゲームに没頭する日常もそうだ。
今大学生に問われているものは、4年間の貴重な時間を、いかに自分の将来のために活かすかと言うことに尽きると思う。頑張って欲しい。
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徒歩で旅していた時代は、時間も風景もゆっくり動いていたはずだ。今の時代はもの凄い速さで周りが過ぎて行く。
あまりの情報量の多さに、クラクラして目眩がしそうだ。何を受け入れて何を破棄したらいいのか、思考が追い付いていかない。
僕らの世代は、20代半ばでワープロを手にした。30代後半になってパソコンでのインターネットにたどり着き、そして携帯とスマホが矢継ぎ早にやってきた。
仕事の質が変革した。パソコンと印刷機の進化によって、余計な書類が溢れ出し、時間が奪われて行った。
このブログもインターネットの恩恵によるものだが、ほとんどブログ依存症になってしまった僕は、やめられない止まらないかっぱえびせん状態だ。気づいたら20年近く毎日ブログを書いている。病気だ。
先日このブログの分量を400字詰め原稿用紙に加算してみた。ゆうに1万枚を超えていた。やっぱり病気だ。ちなみに今日のこの記事が6666回目のブログ記事になる。
このブログ記事のお陰で、テレビに出させてもらったり、新聞や週刊誌で僕の訳の分からない提唱を取り上げてもらったり、コラムを書かせてもらったり、1万枚の枚数が無駄ではなかったかも知れないが、残念ながら経済効果はなかった。笑 ドンマイだ。
先日またテレビ取材のオファーの話がきた。真夜中の番組なので誰も見ないと思うので、了承した。笑
だいぶ前に新聞社より知事との対談の計画云々の話があったような気がするのだけれど、あれはどうなったんだろう・・・
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ほんの数ヶ月前までは路面が凍って大変だった道も、今はすっかり木々は緑に覆われ、初夏の風が吹いている。
季節がありカレンダーが日々の移ろいを教えてくれる。でも自分のことは分からない。自分が夏の季節を迎えているのか、忍耐の冬を迎えているのか。
だから人生は面白いのだと言う人もいるが、僕は知り得たら知りたい。
今朝妻がふと、自分がいつ死ぬか分かっていたら楽なのにと言った。僕も同意した。自分が死ぬ時期が分かっていたら確かに終活はやりやすいし、思い切ったことも出来るし、無駄なあがきをしないで済む。
僕は死ぬのは全く怖くない。出来れば妻より先に向こうに行きたい。そして認知症の母よりは長く生きないとちょっとまずいなと思っている。そんな死生観だ。
もう少しで年金受給者になる。でも国民年金なのでスズメの涙。身体が大丈夫なうちは働き続けないといけない。
今日のこのブログは、ジャクソンブラウンを聴きながら書いている。珍しくジャズじゃない。
僕が持っている多くのCDも、いつか処分するか、されるんだろうな。やっぱり自分がいつまで生きるのか知りたいね。
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近年親しい友人や親類縁者の方々との別れが多くなってきて、自分も年を重ねてきたことを実感します。
30代の頃に抱いていた還暦後の人生設計が、かなり修正せざるを得なくなり、正直焦っています(笑)。
働くことはいいのですが、若い頃よりも仕事量が増え続けていることに、ちょっと笑ってしまいますね。頼られるうちが花と言いますが、仕事量に比例して経済が潤わないのが玉に瑕ですかね。バランスが良くない。非常に良くない。写真の磐座のようにはいかない。
日本の物価が安いからと多くの外国人がやって来る昨今、喜んでばかりはいられません。
なんとか東北が岩手が潤うきっかけというか、カンフル剤が必要ですね。
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決めてたことをやるかどうか、それは勇気がいることだ。
飛び出す勇気はエネルギーがいる。なぜか、失敗を恐れるからだ。絶対の成功はないし、完璧な着地はない。
でも、新たな世界を知るために、自分の可能性を見出すためには、決めたことをやることは大切なこと。一度きりの人生、やりたいことをやらずして躊躇するのはもったいない。
凶と出るか吉と出るかは分からないけれど、やらないで後悔するよりは、やって後悔すべし。
自分のやりたいことに挑戦して失敗すれば、それはそれで納得するはず。周りに迷惑をかけることもあるだろうけれど、所詮迷惑をかけて終えるのが人生そのもの。ドンマイだ。
年齢は関係ない。徳川家康の例を出すまでもなく、情熱あるのみ。あとは自分の運の強さを信じてレッツゴーかな。
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沖縄が台湾情勢などで戦争に巻き込まれた時の、避難場所をシュミレーションした話合いが九州地方の代表を集めて行われたようだが、遅いって話だよね。
アメリカに言われるままに、沖縄に軍事基地を作らせておいて、今頃になって沖縄県民の避難場所云々は対応が遅すぎる。
かつて琉球王国だった沖縄のプライドは、日本の政策の身勝手さで、第二次世界大戦後ズタボロにされた。表向きは沖縄が日本に返還されて良かったねと言うことだけれど、沖縄県民の本音は琉球王国の復活ではなかっただろうか。
日本は単民族国家だなんて言う知識人がおるけれど、とんでもない勘違いだ。
この琉球王国の末裔しかり、北海道のアイヌ民族もそうだし、彫りの深い北東北の人々には間違いなく北方民族の血が流れている。
中国やソ連が何を考えているのか分からないが、ただ間違いなく言えることは、大国として君臨するためには国民の犠牲は当たり前だと思っていることだ。
しかし過去の歴史を見れば分かるように、民をないがしろにした国家や政府は滅んできた。
いや中国やソ連だけじゃない。今日本もそう言う意味では危険ゾーンに突入している。日本国民の利益よりもアメリカの利益を優先させてきた、脅迫観念に晒され続けてきた日本のトップは、明らかに逃げ場を失っている。
アメリカにNoが言える政治家が現れない限り、今後の日本は危ない。
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ジャズを聴くうえで、絶対外せないのがジョンコルトレーン。彼のサックスは圧倒的な強さを持っている。
録音状態が云々の話ではなくて、彼の演奏が全ての状況を変えて行くと言っても過言じゃないだろう。ピアノもドラムもベースも彼のサックスに洗脳されて、異次元に引き込まれて行く。
ひょっとするとモダンジャズの演奏者の全てが、彼のサックスにジャズの本質を学んだのではないだろうか。
テクニックやセッションがどうのこうのと言うことじゃなくて、ジャズに向き合う精神性や、ジャズそのものの可能性を俯瞰する心眼を、多くのジャズメンはジョンコルトレーンから与えられたのではないかと思う。
音の緊張感。メロディーの妥協のなさ。そして比類稀な音の強さ。聴く者の心に響いて来るものは、無骨な叫びや慟哭ではあるけれど、決して悲壮感を共有しないダイナミックな音の波だ。
ジョンコルトレーンのアルバムを聴きたくなる時、僕は優しい劣等感を味わいたいのだと思う。
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ふと浮かぶアイデアや直感は、日常の中で緊張感がなくストレスがない時にやって来る。
お金が無くてイライラしている時や仕事で緊張している時はひらめきがないので、やることなすこと上手くいかない。
従って、緊張やストレスを緩和することが大切なような気がする。音楽や芸術や趣味は故に僕らには必要なことであり、蔑ろに出来ないアイテムだと思っている。
僕は仕事そっちのけで、趣味に没頭することが多いのだけれど、それだけストレスに晒されていると言うことなんだろうと思う。笑
自分の意図することが相手に伝わらないのは、価値観や生まれた環境の違いもあるだろうけれど、根本的な原因は魂の習癖じゃないだろうかと自称プレアデスト星人の僕は思っている。
人は自分の人生に光を求める。その光は夏の太陽のようなギラギラした光かもしれないし、夕暮れ時のやわらかな光かもしれない。
それぞれの光の中に、魂の放射が絡め取られ、僕らは人生を歩んで行く。
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自分の学生時代を振り返る時がある。音楽と文学と言う二つの名詞で語り尽くされてしまう自分の青春だったけれど、心から切なくてそして楽しかった。
耐え忍んだ高校時代。楽しい思い出は何もない。やりたくない勉強を自分に課したあの頃を思うと、正直身震いする。受験勉強は精神に悪い。笑
受験指導をしている僕はそのことを踏まえて受験生と付き合っている。
努力と言うのは、適度に楽しくやるもので、眉間に皺を寄せて修行僧のごとくやるもんじゃない。
人生は果てしなく見えるけれども、一瞬のドラマだ。楽しみがあっての人生だと僕は思っている。
自分の楽しみのための努力なら、大いにやってやろうじゃないと言うのが僕の信条。
お金や地位やプライドの前に楽しい明日。その連続が人生を退屈にしない秘訣だと思う。
3日前、ボロボロのコントラバスを5000円で買ってきた。指板を修復し、オイルを塗って乾燥させ、だんだんかつての輝きを取り戻してきた。これも僕の楽しみ。^_^
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3日前の夜中2時頃、電話が鳴った。塾に来たのが転送になって僕のスマホに来たのだが、理由はわかっている。
一関市内の某スナックの電話番号と僕の塾の電話番号が似ているのだ。
夜中の電話ってだいたい近しい人が死んだとか、危篤になったとかそんな状況でしか来ないのでどきりとしてしまう。
電話と言えば、近年は塾の問い合わせの電話がない。ほぼメール。それもメッセンジャーでの問い合わせがほとんど。時代は変わった。
若いパパ、ママ世代は新聞を取らない。故にチラシも見ない。ほとんどがスマホ検索。インスタやFacebookやブログがヒットして閲覧する状況。
某塾の70を過ぎた塾長先生が、チラシを出しても全く反応が無いと嘆いていましたが、インスタもFacebookもやっていないようで、と言うかスマホは電話機能のためにもっているようで、アドバイスをしようかとも思いましたが、面倒くさくなるのでやめました。笑
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