生活が困窮するのは自己責任
お金がないのも仕事がないのも自己責任?
と思っている人がいるとしたらそれは大間違いだ。人間の能力は平等じゃない。一律の教育を施しそれでこと足りると思っている人たちがいるようだが、職業訓練を含め、学歴に関係なく公的ケアーを必要とする人は多い。
お金がない人もある人も、安心して暮らせる社会があってこその文明社会だと思う。競争原理を根底に進展して来たこの世界は、弱肉強食の価値観を改めない限り、やがて競争原理のもとに滅びるだろう。
賢きものが富を手に入れることが悪いのではない。搾取されることで弱者になってしまった人たちを救済しないことが社会の歪みを作って行くのだ。
はたしてどれだけの人間がこの世界で、明日の食糧を心配しないで生きているだろうか。想像以上の人たちが明日の食事のことを憂えている。
電気代が上がり、ガソリンが高騰し、物価が急激に上昇しても、痛くも痒くもない人たちがいる。一応世の中に同調して「本当に大変ね」とは口にするけれども、数億もするおうちに住んで、高級車を所有する人々には、とりあえずこの世界はパラダイスだ。
僕は貧乏であることもお金持ちであることも、実はそれほどの差異はないのではないかと考えている。
例えば街の真ん中で、僕は大金持ちだと叫んだとしたら、周りはどういう反応をするだろうか。羨ましがられるだろうか。尊敬されるだろうか。きっと変な奴と思われておしまいだ。
だからお金持ちは数億円もするマンションを買い、数千万円もする外車を買って乗り回すのだ。自分が金持ちであることを認識させるために。
貧乏人は貧乏人で、同じことをやる。高校を出たばかりの工場勤務の若者が500万クラスの新車を買って、彼女を乗せて満足気だ。
金持ちも貧乏人も本質は変わらない。平均よりちょっと異質な存在で、彼ら彼女らを突き動かしている行動原理は、自分達は特別な存在だと言う自己認識だ。
ポジティブ貧乏人はほっといても大丈夫。生活保護のお金でパチンコをしようが、親の財産を当て込んで豪遊しようが知ったこっちゃない。
問題は搾取されている貧困者たちだ。気づいていないかも知れないが、企業や国に搾取されている多くの生活困難者たちは、自分達が搾取されていることすら知らずに真面目に搾取され続けている。努力とか勤勉とか言う言葉に踊らされ、テレビの言うことを信じ、政治家の妄言に騙されて。
なぜ僕たちの生活が潤っていかないのかを考えてみれば、自ずとその本質は見えてくるはずだ。
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