作詞作曲をする行為は、小説を書くのと同じように自分の孤独を埋める作業なのかもしれない。
文学青年だったけれど僕は全く小説は書けなかったし、書きたいとも思わなかった。しかし作詞作曲への欲求はとても強かった。
自分を取り囲む世界からの逃走と言えばよかっただろうか。僕にとって楽曲を作る行為は逃避以外のなにものでもなかった。
世の中には才能に恵まれた人たちがいっぱいいる。微積の問題が好きでしょうがないと言う友人がいたし、六法全集を読むのが人生の生き甲斐と言う知人もいた。クラッシギターの達人さえもいた。
東京で進学塾の講師をしていた頃、色んな個性ある連中に出会った。言って見れば塾講師をしている若者達は夢追い人か、変人だった。
公立学校の教員を目指して、塾講師をやっているまともな人種もいたけれど、小説家志望の国語教師や、芸能界デビューを目指すイケメン教師、弁護士を目指して長年講師をしているけれど、酒と女性に溺れてにっちもさっちもいかなくなってしまっている中年男など、本当にバラエティに飛んだ世界だった。
僕はこの居心地の良い世界にいたら、自分を防御しきれなくなると思い、2年を待たずして岩手に帰還した。それが正解だったかどうかなんて誰も知らない。僕も知らない。
それから6年後に、現在の私塾を一関で開校するまでの期間、僕は完全に死んでいた。正解に言うと、やる気の演技だけで惰性で仕事をしていた。いや惰性で生きていたと言った方がいいかもしれない。
息子が誕生して、その後すぐ父が他界した。55歳の若さだった。僕のそれ以降の人生選択は本当に行き当たりばったりだった。田舎では、塾だけで食べていけないということに気づいたのは塾を開いて3年ほどしてからだった。
サラリーマン向きでないのは自分が一番知っていたので、米農家をやりながらバイトをしながら塾を営んでいた。
そんな日常の中で、僕が再びギターを手にするのは必然的な流れだったように思う。わくわく感がないと僕の魂が死んでしまうことを、僕自身が一番知っていた。曲を再び作り始めた。
一関でのライブを敢行し、ラジオ局にデモテープを送った。民放のラジオ局にとどまらず、NHKの歌番組からも問い合わせがやってきた。僕はもう50歳になろうとしていた。
その頃市内の私立高校より、非常勤講師のオファーが来た。変なブログを毎日書いている自称シンガーソングライターの異質な塾講師が、私立高校の非常勤講師になってしまった。
そしてそのタイミングで東日本大震災が勃発した。本当に未曾有の震災だった。放射線量の問題。人口移動による過疎の加速。無農薬が売りで買って頂いていた我が家のお米が放射能に汚染されて、僕の米作りの情熱が消えた。
そして僕の音楽への情熱も終焉するのだろうと思っていた。ところが、演奏する方じゃなくて、ジャズを聴くと言う情熱が還暦を過ぎて蠢き出した。音楽への情熱はまだまだ終焉しそうにない。
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