さりげない日常の中で
何かを継続することって大変なことだけれど、それがルーティンになると自然と身体が動くから不思議だ。
現在の寺子屋塾を始めて33年。毎日日曜日以外は自宅と塾の往復を33年間やってきた。日曜日はほぼ中学生の卓球の指導。今年は納屋のリフォームでだいぶサボったけれど、これもほぼ15年続いている。
そして13年間平行して私立高校の非常勤講師や論文添削指導員、短期大学の講師などをやってきた。それに付け加えて農業も継続中だ。
我ながら良く働いてきたと思う。60年ちょっとの人生だけれども、120年生きてきたようなそんな感じだ。
正月の元日以外は目覚まし時計が欠かせない日常なわけで、働き続ける僕はまるで泳ぎをやめた瞬間に死んでしまうマグロのようだ。
人生には青天の霹靂とでも言うような出来事が突如として起きることがある。身内の死であったり、突然の失職だったり。それまであった日常が急展開する。僕の人生にもそう言うことが幾度かあった。
さりげない日常が終わった瞬間、ざわざわとした景色の中で、自分が失ったものの大きさと、その失望感に立ち向かう自分を俯瞰でもしているような時間が過ぎて行く。
自分がやって来たことが、正しかったとか間違っていたとかなんてそんなことはどうでもよくて、ただただ一生懸命生きて来たことそれだけが、僕の存在理由であり全てだった気がする。
僕は間違いなく年を取った。塾生から見れば僕はおじいちゃんだ。時々男子生徒が、先生疲れてるんじゃないと言って肩を揉んでくれる。ありがたい。
最近新たな仕事が舞い込んで来た。金田渉治改め金田祥治に改名して以来、納屋のリフォームに着手したり、地元の奉納祭りで30年振りに歌を歌ったり、新たな仕事のオファーが来たり、効果はバッチリ出てきたような気がするのだけれど、さらに忙しくなって行くことだけは誤算だった。改名したことにちょっとだけ後悔している。笑
さりげない日常がまた続いて行く。
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