六芒星顛末記おまけ
何かを信じ何かを追いかけることは、単なる自己満足のなせる技で、マスターベーション以外の何ものでもない。そこが人間の性。
信仰するものもその通りで、阿弥陀仏を信仰しようが天照大神を信仰しようが、イエスキリストを信仰しようが、内面はどうあれ、人生にそれほどの差異が表出するものだとは思えない。
人間は生まれて来たからには全てが死に向かう。間違いなく全員が死ぬ。生まれて死ぬまでの期間を人生と呼ぶわけだけれど、その期間僕らは死に抗い、死を忌み嫌う。
なぜだろう。我々は限りなく利己的な存在だからだ。お金持ちになりたい。幸福でいたい。そのために僕らは働き、そして時に祈る。
古代人たちが信仰して来た磐座の前に佇んでみると、祈りの残像が放射してくる。神がいるのかと言うテーマはちょっと置いといて、岩や仏像に何千人いや何万人の悩み多き人々が祈ることで、その岩や仏像は覚醒する。人間の祈りによって。
六芒星を巡ると良いことありますか?時々発せられるおちゃらけ質問。無いと言えばないし、あると言えばある。
六芒星のど真ん中にある聖地蘭梅山。写真の山がそうだけれど、時々スターゲイトが開いたんじゃないかと思うような不思議な雲が漂うことがある。僕の勘違いかも知れないけれど。
そう実は人生のほとんどが勘違いで構築されて行く。生きて行くってそういうことなのかも知れない。

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