高校生の時に松山千春の歌に出逢って、それからと言うものカラオケの十八番はこの歌。若い頃は結構高いキーが出たので、青筋をたてて歌っていたけれど、しかし今は無理。
もうすぐ62歳になろうとしている今、絶望の淵に立たされていた高校時代がやけに脳裏に蘇って来るこの頃だ。努力が大切なんだとわかってはいるけれど、その努力をするのも実はかなりの勇気が必要だ。
何かに向かって頑張るってことは、実はかなりのリスクを伴うことなんだよね。それ以外のことは疎かになるし、努力の先に果たして成功や生活の糧が待っているかなんて分からないからね。
電気や無線が好きで、高校は工業系に進んで、高校を終えたら地元の電気関係の工場にでも勤めて父の農業を手伝うつもりでいた。経済的なこともあって大学進学なんてことは全く考えていなかったからね。農家の長男で一人っ子。僕の将来はそんな感じだと思ってたね。
それが3年生を迎えるやいなや、色弱なので、工業は受験出来ずときた。もちろん工業系の仕事にも就けないとの宣告。確かに黒ペンと赤ペンの区別がつかない時があることを思い出した。僕は色弱だったのかと。
就けない仕事を調べた。医師・薬剤師・他医療関係・消防士・自動車修理士・電気技術士・電気工事士・理科教師などなど。つまりは色に関する識別が必要な仕事は全部ダメ(当時)。
これってかなり落ち込むよね。仮に普通高校に入っても生きる道は文系ってことでしょ。英語にしても国語にしてももっとも興味がない教科だったからね。
どうでもよくなって、受験勉強なんてしないで毎日ギター片手に歌いまくっていたね。その時から35年後、自分が塾の先生はミュージシャンなんてタイトルでテレビで紹介されるなんてお釈迦様でもご存知なかっただろうね。本当だよね。
そんでもって自分の進む道がわからなくて、近くの神社に行って「神様助けて!」と心で叫んでいたわけだけど、そんな僕が45年後、今度は岩手六芒星神社なるものを提唱して、新聞や週刊誌に取り上げられるなんて、人生って起伏に富んでいると言うのか、もし僕が色弱じゃなくて、順当に工業高校に入って、地元の工場に勤めて農業をやっていたら絶対有り得ないシチュエーションだったもんね。それがいいかどうかは別にして。
先生と呼ばれる仕事に就いて40年。教えることを介して関係した子ども達の数は4千人くらいになるんじゃないかな。
今日はクリスマスイブ。塾から眺めた夕暮れの空はとても華やかな空だった。果てしない大空と広い大地のその中で、僕は生かされきたんだなと思う。自分が頑張ってきたものが仮にあったとして、そのことが自分の生活の糧にならなくっても、そんなことはどうでもいい。生きることに勇気を与えてもらえれば、それでハッピーだ。
昨日卒塾生から美味しい日本酒を頂いた。今夜飲もうと思っていたら、昨夜妻が既に味わっていたらしい。やられた。^_^
⇚ぽちっと一押しの応援お願い致します。
当塾のホームページはこちら☞➡大験セミナー
最近のコメント