クレッセントの夜
教室から撮った月の写真。一関磐井川の土手が異国情緒溢れるそんな風景になった。
三日月一つで風景が激変する。なんか色々と考えさせられる写真である。僕らの人生も似ている。付き合う人や身につける装身具でだいぶ印象が変わる。だから侮れない。
もしこの写真の中の月が満月だったらどうだろう。とても日本的な田舎の風景に様変わりしそうだ。
今日は学歴と人生の話をしてみたい。簡単に言ってしまえば、いい学校を出た人と俗に言う底辺校を出た人の話。
僕は俗に言う底辺校の高校を出ているので、そんな高校出身者としての立場から話をさせていただく。多分以前にも書いたと思うのだけれど、高校に入ってプライドがずだぼろになって、そんでもってヤケクソになって、自分の馬鹿さ加減に腹が立っていたたまれなくなった高校時代だった。あれから45年もの年月が過ぎたにも関わらず、記憶が鮮明に蘇って来る。
かつての旧制中学校である進学高校出の人間にこき使われて終わる人生なんだろうなと、ネガティブ感満載の妄想を持ち、僕は半分死んでいた。
半分死んだまま大学受験の準備に入ったものだから、これまた大変だった。
一応大学と言う名のつく学校に入ってみたものの、かつての劣等感がくすぶり続ける日々だった。つまり僕の人生は満ちることなくクレッセントのまんまだった。
誰もがそうかもしれないが、一度失った自信を取り戻すことは容易なことではない。故に学歴云々以前に、自信喪失をしない人間は凄いなと思う。
僕が人前で自然体の自分でいられるようになったのはつい最近。どうしても学歴コンプレックスから逃れられなかった。長い時間がかかった。あぶなく来世まで持ち越すところだった(笑)。
塾教師と言う特殊な仕事を40年続けて来て、その間10年ちょっと私立高校の講師をやってきた。自ずと世に言う高学歴の方々と仕事をさせていただくことも多いわけだけれど、少なくても学力に不安のない人は世の中の捉え方が常識的で、ぶれが少ない。
東大・京大・上智・慶応・早稲田など高校時代の僕からすれば天界の方々の存在だった学校なわけだけれど、そう言った出身校の方々と仕事をすると安心する。常識的だから。下手な忖度をしないし、出来ることをしっかりしてくれる。とても大切な能力だと思う。
人の期待値にぶれないと言うのは、ある意味大変なことだろうけれど、それが出来て初めて人は信頼を得て行くのだろうと思う。そうなると学歴やキャリアにこだわる必要もないだろうし、クレッセントのままでも崇高な光を放射するんだろうと思う。
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