最近のトラックバック

« 確率的にはあり得ない | トップページ | 松の剪定歴と塾歴は同じ »

2022年9月15日 (木)

岩ごときに神様は存在するのかって

106b050e03154c8a922e6b0053813c4b

このような神宿る磐座を探訪し続け四半世紀になる。神宿ると表現してしまったが、僕は見えるわけでも聞こえるわけでもない。世間がそうだと認識していると言うことで。

こう言ったいわゆるパワースポットを探訪探索して何かいいことあるの?と思われる方は多いはずだ。決して薄くなった髪が増えるわけでもないし、通帳の残高は見るのが怖いくらいだし、朝起きたら休耕田の草刈りが終わっていたなんていう奇跡が起こるわけでもない。これと言ったご利益があって探訪しているわけではないのだ。強いて言うならば、岩に対する猛烈な好奇心とでも言えばいいだろうか。そんな感じだ。

いろんなフェチがいるのだろうと思うのだが、僕の場合は磐座フェチってところだろうか。磐座に魅了される理由はずばり古代から大切にされてきた岩だからだ。それ以上でもそれ以下でもない。

正直僕の中には、神様や信仰に対する懐疑心があったんだと思う。子どもの頃、神仏に祈っている人を見ると、なんか不思議だった。何に祈っているんだろうかとか、何か根拠があってこれを信仰しているんだろうかとか、そんなことを考えていた気がする。

茅葺き屋根の我が家には、囲炉裏の煙で煤けた神様が祀られていた。拝むのは年末年始ぐらいなのだけれど、神妙に手を合わせている祖父の横で僕も真似をしていた。

今もそうかも知れないけれど、当時はとても貧乏で、僕は自分の家には神様なんか居ないと思っていた。小学生の時に、歯が痛くて歯医者に連れてってと言ったら、味の素でもつけておけと言われた。父の長い闘病生活で、うちにはお金がないと言うことを実感した瞬間だった。

お金がないことを前提にして生きてきたものだから、それなりの根性は鍛えられてきた。故に高校も大学も学費は自分で払うことが出来たのだろうと思う。

そんな無神論的な僕が磐座や神社に魅了されるようになったきっかけは、貧乏からの脱却だった気がする。この日本社会で成功するには中途半端な学歴や努力などでは残念ながら埒があかないことは重々承知していた。運と言うものがなければ道は開かない。じゃ運を持つにはどうしたらいいのか。

僕は古代から信仰されてきた磐座にその標を求めた。ラーメン屋さんが繁盛するのは美味しいからだ。レコードが売れるのは曲と歌がいいからだ。数千年も信仰されてきたのは、多くの人が救われ癒されてきたからだ。それが僕の磐座への憧憬の一歩だった。非常に打算的な一歩だった気がする。

磐座を探訪し祈りの時を持つようになって明らかに変わったことがある。人生に必要なものが絶妙のタイミングで現れるようになった。そのお陰でお金がなくても楽しい時を持つことが出来るようになった。

やっぱり神様はいるね。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ ⇚ぽちっと一押しの応援お願い致します。

当塾のホームページはこちら☞➡大験セミナー

 

« 確率的にはあり得ない | トップページ | 松の剪定歴と塾歴は同じ »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 確率的にはあり得ない | トップページ | 松の剪定歴と塾歴は同じ »