この糞のような社会で
高校生が言葉を吐いた。この糞のような社会で、生きて行く希望を見つけろってが。まさに夕暮れ時に何かを吐きだしている龍神雲が現れた。いや違うな、糞のような社会の腐敗を吸いとっていたのかも知れない。
まだこのような言葉を発することが出来る若者は大丈夫だね。糞だと思ったらそれなりの覚悟で生きて行ける。
生きて行く先に夢や希望がないと決めつけてしまう若者の思考は、家庭環境やさまざまな負の経験値から来るものだろうと思う。金を中心にして動く社会に対して子どもたちは無力だ。無力だけれど、大人になる前に自分が生きて行くために何が必要かは考えるべきだ。
勉強することがお金と結びつくことだと鼓舞することも出来ず、努力の先にあるものの確実性を示すことができない社会。裕福な家庭に生まれた者たちの特権と貧しい生活を強いられる者たちの葛藤。責任は誰が背負えばいい。
社会か個人か政府か。それとも一握りの特権階級か。お金がないことも、仕事に就けないのも、家庭が持てないのも全て自己責任だとするならば、その責任構造は単なる能力主義の差別社会だ。
学歴がなくても、所有財産がなくても、家庭がなくても、お金がなくても生きて行くすべはいっぱいあると言うのは、偽善以外の何ものでもない。
ないない尽くしの生活くらい大変なものはない。でも生きて行くことを決意したら、身体と頭脳は鍛えなければならない。どこで?
日々の生活の中でだ。お金がないなら、とりあえず働け。学歴がなければとりあえず本を読め。身体を調整したいのなら身体を動かすことだ。大学や専門学校に行くには金がかかるが、身体と頭脳を鍛えるのにはお金はかからない。
車がなければ中古の自転車を買って走り回れ。本は古本屋の100円コーナーで買える。図書館からは借りるな。積み上がって行く本を眺めてほくそ笑んで自信をつけていけ。服は古着屋でいい。動き回れ。必ず運も動いて来る。
糞のような社会かもしれないけれど、一度糞まみれになってしまえば、それ以上の屈辱はもうない。もがいてみればいい。必ず人生は拡散する。そして同時に自分が見えてくる。クソじゃない自分が。

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