どこまで辿りつけば満足なんだろう
努力して頑張ることが美学だと教えられてきた。辛くても疲れても最後までやり通せと学校や世の中で言われて生きてきた。
そのことが正しいとかそうじゃないとかの判断なんて、考える隙間などなかった気がする。僕らが生まれ育った1960年代はそんな時代だった。戦中を生き抜いてきた教師たちは、馬車馬のごとく僕らを煽って叱咤激励した。暴力は日常茶飯事で、毎日誰かが殴られていた。
それでも初めてコカコーラを飲んだ時の感動のような、言ってみればまやかしの感動が学校にはあった。頑張れば報われると。
お金があるやつが優位な社会であることをもっとちゃんと教えてもらっていたら、僕はもう少し実務的な学問に精を出していた。でももう遅い。
ある種の知識はお金になる。しかし殆どの学問はお金にならない。せいぜい先生と呼ばれる職業にとって飯の種になるくらいだ。高校や大学に入るための勉強は、忍耐力や根性を鍛えるのには役に立つが、金儲けにはほとんど役に立たない。
工業系やIT、医療薬学の知識はお金儲けに直結するが、それ以外は、サッカーで言うところの間接フリーキックだ。形容動詞と連体詞の区別が出来ても、数学の二重根号の外し方がわかってもそれがお金に直結することはない。でも僕らは、退屈を押し殺して頑張ってきた。その結果、お金とは縁遠い暮らしをしている。
大学に入るための知識がお金を産むのは、東大や京大のトップクラスの国立大や、早慶・上智などの学閥が完璧に構築されている大学を終えた方々で、僕らのような4流5流の学校を終えてしまった凡人にとっては、大卒の資格がお金を産まないのは周知の事実だ。だから違うところで頑張らないといけない。
いったいどこまで辿りつければ満足なんだろうと思うことがある。残された人生にあとどれくらいチャンスがあるのだろうか。欲望が消えた時、終焉がやってくるんだろうな。
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