縄文に思いを馳せて
ここ10年ほど、僕の意識は縄文に向けられてきた。何故に縄文なのかと言えば、縄文の巨石文化と流れるような火炎の芸術に魅せられた結果としての縄文オタクと言うところである。そもそも地球上の文明の進歩は、過去から未来に流れる一本の道筋などではなく、何度かの終焉を繰り返しての、つづら折りなす繁栄と衰退の文明だったのではないかと考えている。
キリスト教文明とも言える現在の地球文明は、わずか2000年のスパンで石斧の時代から宇宙に飛翔する文明にシフトしてきた。そういった人類が、1万年~数万年と言われる期間を進化することなく狩猟採集の民として暮らし続けてきたはずはなく、高度文明が何度か築かれてきたと考える方が自然な歴史的感性のような気がする。
それを踏まえて考えれば、縄文時代を起源とする環状列石や磐座の信仰は、古代高度文明の遺跡の残像ではないかと夢想する僕である。例えば奈良時代から日本に伝播した五芒星や六芒星の幾何学模様は、縄文時代の超古代文明が宇宙エネルギーを取り組むために作り出した一種のエキセントリックな科学技術であり、古代の英知をキャッチ出来た霊媒体質の先人たちが、時代時代に即したツールとして、宗教や祈りに利用してきたパワーアイテムだったと考えることも、想像を掻き立てる妄想としては楽しいのではないだろうか。
中国から伝わった風水や五行説のような思考体系は、はるか昔の文明人が生み出した当時の最新のテクノロジーで、地球上を縦横無尽に駆け巡るマントルや磁場、そして宇宙から降り注ぐ多種多様のエネルギー光線を月や星々の位置エネルギーを利用して、時に覚醒させ時に抑制してきたのが環状列石をはじめとする磐座巨石のレイラインだったのではないか、そしてそのテクノロジーの残像を追い求めた古代人の遺跡が、僕が追い求めるアラハバキ神のルーツではないかと妄想する日々である。
4年前に提唱した一関を覆う六芒星の磐座は、縄文時代から受け継がれてきたエネルギー場であり、そのエネルギーをキャッチ出来た巫女的存在の祈りが、阿弖流為や坂上田村麻呂やそして安倍氏一族らのが生きてきた時代の中で、覚醒者のツールとしてのその役割を担ってきた気がする。そんな妄想が還暦を過ぎた爺の頭の中を駆け巡る。

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