その幻想にこだわる時
小学校の高学年の児童が学校から帰ってきて、すぐに塾に行って受験勉強をする日常と、学校から帰ってきて、おじいちゃんやおばあちゃんを手伝って田んぼや畑で仕事をする日常のどっちが児童にとって幸せだとか、将来性が有望だとかいう判断が仮になされるとするならば、その判断基準は人間の尊厳や人間の価値や、人間の生き方そのものを俯瞰したものでなければならないはず。我々教師が、家庭環境に直接介入できない敷居の高さが、実はそこにあるような気がします。
勉強することは大切だよと言われますが、そのことを口にする大人は、勉強することの本質を踏まえて言っているというよりは、世の中大変だから勉強しなさいよという言葉で、一種の恐怖心や不安感を払拭させたいが故のアドバイスであって、勉強することのサディズムを推奨しているわけではもちろんないですね。
誰しも幸福でありたいもの。それは実は勉強しなさいと言う大人もまさにそうであって、勉強することで幸福が手に入るという幻想を、自分に言い聞かせて、自分を癒しているのかもしれないですね。
努力の先には、間違いなくある種の成功が待っています。しかしそれを最終的な幸福と呼ぶのは、現実として難しいものがあります。年配の方が、若者相手に話すかつての武勇伝や成功話ほど退屈なものはなく、たとえ年老いた方でも、さらなる未来を見据えている方は、そんな話はしません。ひょっとすると、勉強や努力が大切だとも語らないのではないでしょうか。
人は生きざまでしか、人生を語れないような気がします。受験生に勉強が大切だとは、あまりにも当たり前すぎて言えません。僕が言えることは、自分と大切な人を守るすべを身につけてねという事ですかね。そのために人間は頑張って生きて行くのだと思います。

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