最近のトラックバック

« 時代は巡る | トップページ | 龍神に魅せられて »

2018年5月 9日 (水)

僕の幻想かもしれないが

 教師や親はどこまで子どもに関わるべきか、関わらなければいけないか、実に悩み多き選択肢が横たわっていく。何度もこのブログで述べてきたが、例えば宿題に関する縛りもそうだ。
 ひと勉と称して、小中学校では、ノートに自習勉強をやらせて提出させる慣例ができてしまっているが、読書は対象にならなないのだろうかと思ってしまう。自分の話で恐縮だが、入った高校はまったく宿題を出さない学校だった。まあ出してもどうせやらないだろうという空気感が漂っていたがゆえの先生方の方針だったのだろうけれど、おかげで好きなだけ本が読めたし、英語の勉強に関しても、授業が中学生レベルの域を出ないものだから、自分で問題集を買ってきてマイペースで受験勉強ができた気がする。独学で勉強をしたことが、間違いなく今の仕事に役立っているわけで、生徒個人個人に対する対応がまあ自分なりにできているのも、高校時代の独学がベースにあったと思っている。
 
 とにかく宿題が多い。先生方にすれば、この宿題をこなさなければ国立大学は厳しいという焦燥感を生徒に植え付けて頑張らせたいのだろうけれど、ずっと与えられて勉強する先に見えてくるものは強い依存性ではないかと心配になってくる。大学だけじゃない。公務員になるにも大半が受験専門指導の学校に通う傾向がある。
 
 ほっといたら何もやらない。このフレーズはよく聞かれる。せっかく能力があってもレールを準備してあげないと努力をしない。このフレーズもよく耳にする。本当にそうだろうか。ほっといたほうが野生的で個性的なたくましい人間になるような気がするのだけれど、僕の幻想だろうか。幸か不幸か僕は、親から勉強をしろと言われたことがない。ただし家の農業を手伝うことは厳しく言われた。農繁期にのんびり本などを読んでいるものなら、即刻田んぼに駆り出された。
2018050910290000
 
 2年前に稲作農家を廃業した。母の介護もあっての選択だったが、正直なところ農業に飽きた(笑い)。小学5年生の頃から、耕運機を運転し、動噴を担いで田んぼを闊歩していていた。ゴールデンウィークなどという言葉は我が家では死語で、泊まり込みでどこかに出かけるなどと言うことは60年近い人生において一度もなかった。今回北東北の温泉とパワースポットを巡ってきたけれど、人生初のゴールデンウィーク自由旅だった。
 田んぼや畑があるのにもったいないですねなんて言われたりするが、どうぞやりたい人は勝手に使ってくださいという感じである。農業は小さいころからやるだけやってきたので、もういい。そんなところである。
 さて話を戻そう。こどもの教育は大切である。お金と手間暇をかけて人間教育を施していくのが親の責務ではある。自立できる人間であるために、学力と最低限の学歴とそしてお金を稼ぐ能力は必要不可欠である。ゆえに親は大変でも、こどものために塾に通わせ、いい学校そしていい仕事につかせようと切望する。
 しかし僕のようにそういった社会のレールから外れた人間はどうすればいいのか。問題はそこなのだ。泥臭く生きるしかないわけだけれど、自由人であることの尊厳をいかに社会との折り合いの中で保つべきかということなのだろうと思う。
 世の中の子どもたちがすべていい学校に入っていい給料取りになるわけではない。それどころか半数以上は紆余曲折した人生を強いられ、彷徨える子羊の如く、生活と格闘していく。厳しい言い方をすればそれが人生だ。しかしそのような人生だからこそ、醍醐味がある。
 一律の宿題を出され、ふてくされながら解答を丸写しする前に、考えるべきことはある。やるべきことはある。やりたくない仕事をいやいやする前に、考えるべきことはある。やるべきことはある。本来の自立ある生き方をするためには、自分の環境で自分が期待される人間像を自分なりに演じる力を身に着けることだ。僕の幻想かもしれないが、自立とはある意味演じる力だと僕は思っている。
 どうでもいいことだけれど、ここは利口な生徒を演じておこうとか、どうでもいいけれど、ここはできた嫁を演じておこうとか、そういったスタンスの中から本来の素の自分を模索していくことが、自立につながって行くのではないかと思っている。
今日もかなり独断と偏見のつぶやきをしてしまった・・・・失礼いたします。
m(_ _"m)

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ ⇚ぽちっと一押しの応援お願い致します。

 

当塾のホームページはこちら☞➡大験セミナー

« 時代は巡る | トップページ | 龍神に魅せられて »

コメント

ごぶさたしています。
「紆余曲折した人生を強いられ」ている一人の、学び舎です(笑)。

「ひと勉」や「がんばりノート」の問題は、私も以前からその効果を疑問視していました。高校生の宿題にしてもそうですが、言葉は悪いですが学校側の「アリバイづくり」ではないのかと勘ぐってしまいます。

おっしゃるように、自分の頭で自分のことを考える人間を育てたいのであれば、あるところで手を離して、一人でやらせてみる必要があると思います。

ブロイラーではなく地鶏を、というところでしょうか。

(かねごん)
小林先生コメントを頂きありがとうございます。『アリバイ作り』という表現は琴線にふれましたね。量より質の問題が問われる課題の在り方だとおもいますね。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/402165/73452648

この記事へのトラックバック一覧です: 僕の幻想かもしれないが:

« 時代は巡る | トップページ | 龍神に魅せられて »