時代のスタンスというのを共有してきたはずだろうけれど
ありふれた日常の中で、僕らが当然と思っていることが、当然じゃなかったリする。一人ひとりの人間は違う存在だ。たまたま生まれ育った国や地域の特性や習慣に基づいて僕らは行動規範を作られ、思考してしているが、それを否定する権利は、実は誰にもない。
権利を主張するのは、必ず他者の欲望がそうさせているのであって、人間が生きていく性(さが)である。個人対個人の競争や物資の取り合いは、スポーツや教育や経済社会を見れば一目瞭然で、共存繁栄の陰には必ず、搾取する人間と搾取される人間が存在する。
能力の差、運の差、しいていは霊格の差まで、持ち出されれば、努力がすべてだと信じて頑張ってきた人間が戸惑うのは当たり前だ。しかし、どうも今の時代を俯瞰すると、心や魂の問題をスルーしては、人間を語れない時代になった気がする。
最近は科学が量子力学を語りだし、科学と宗教の境界線が非常にあいまいになってきた。宗教というと語弊があるかもしれないが、人間の思いが現実を構築し、社会を誘導してきたと言えばいいだろうか。政治や教育がどうもいい方向に進んではいない。その心配は、明らかに学校という現場で顕著になっている。しかし教育者はそのことを気づいていても声を大きくはしない。
僕のPCのメール欄には、日々学校における問題の相談がやってくる。そのほとんどが学校の対応に対する疑問や不安だ。意外かもしれないが、そのほとんどは塾生の保護者からではなく、部外者の親御さんからのものだ。地域で四半世紀以上寺子屋を営んでくると、そういった相談は増えてくる。
まあ確かに各学校の校長先生は僕と同年代なわけで、いわば同じ時代を生きてきた人間だ。時代のスタンスというのを共有してきたはずだろうけれど、立場は全く違う。塾教師としての僕は、教育はサービス業だと思ってやってきた。サービス業なので、支払っていただく代価として、知識を提供し、楽しい時間と空間を提供してきた。そうでなければ、継続しない。
学校は違う。若干私学の先生方には、僕の思考と共通する部分があるが、やはり一般に教諭と言われる立場の人間は、強い。実はこの強さが、子供たちやご父兄を戸惑わせる。そのことに気付いている先生もいるだろうが、実は自分たちの強さを気づけば、心の在り方としての対応が違ってくるような気がする。
強い人間に立ち向かう人間は、どのような日常性をとるだろうか。自分が優位じゃないとすると、様々な策略を講じてくる。相手が弱いとなると、傲慢な態度になる。そのジレンマを開放するのが優しさなのだが、構築された資本主義経済のこの世界では、かりそめの優しさが充満してしまい、本音が虚構のオアシスの中で、埋没している。それを掘り起こす気力が必要だろうと思う。
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