自分の能力や運に、妥協することは本当は必要なことなんじゃないだろうか
能力のある人間を登用する社会は一見ノーマルな社会に見えるけれど、本当は厳しい社会なのだと言うことを自覚する必要がある。弱者という言葉があるけれど、本来は強者も弱者も存在しない。それぞれが個体の個性として存在しているのであって、優劣をつける指標は人間の偏見であり、幻想だ。
このブログで何度か繰り返して述べてきたけれど、相対評価というものそのものが詭弁であり、利便性がもたらした人間への冒瀆だ。
頑張ればなんとかなる!という言葉を平気で使える程僕は図太い人間ではないので、ついつい本音を言ってお叱りを受けるのだけれども、頑張れという暗黙の励ましの元、どれほどの人間が心療内科や精神科に駆け込んでいるだろうか。
諦めも人生の美学だと思う。最後まで頑張ってダメだったら、それが自分の指向性なのだと、自分の能力や運に、妥協することは本当は必要なことなんじゃないだろうか。
情報社会がもたらす様々な幸せや喜びの種は、実は土壌があって初めて花開くもの。まるで情報がそのまま富や成功をもたらすかのような錯覚をインプットされてしまった現代人は、希望過多の幻想人になってしまったかのようだ。
努力は尊い行為であり、人間を成長させる大切なツールだ。階段は登らなければ、その高みに到達することは出来ない。しかし登り続けることは決して出来ないし、長い階段であれば休息も必要だ。目標点があって初めて人間は安心して歩みを運ぶことができる。
僕らには目標点があるのだろうか。受験の合格や希望した会社への就職や、好きな人との結婚、それらによって幸福感に満ちることはあっても、それが最終目標点ではない。
生きるということは、自分を表現することだと思う。表現者である僕らが演じる舞台は、日々の暮らしだ。その暮らしをどうするのか、シナリオを描く力量は人それぞれだ。喜びに満ちた人生でありたいと誰もが望む。誰も不幸など背負いたくはないだろう。
人生のシナリオはいつでも書き換えられる。明日からでも今からでも全然大丈夫だ。自分に出来ることから始めればいいのだ。何も難しいことはない。やれないことはやらなくていい。自分が出来ることから始めれば、間違いなく道は現れる。その道を一歩一歩歩めばいい。
そしてちょっと違うなと思ったら、休息して空を見上げてみればいい。また違う風景が見えてくかも知れない。ひょっとすると自分の前をダッシュして進んで行く人間がいるかも知れないけれど、それはそれだ。風景を楽しむこともいんじゃないかな。
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