自分が向かうベクトル
昔読んだ本に、神社仏閣に行って頭を下げる人間は運が衰退している人間だと書かれていた。
確かに何かに頼ろうとする人間は、他力本願の傾向があることは否定できないけれど、神社仏閣に頭を下げる人間が衰退しているとは僕は思わないな。
世の中には神様など存在せず、人生を左右するのは運や星の巡りあわせなどではなく、単なる努力不足や勤勉が足りないだけだと断言する人間がいる。
とても強い人間だと思うけれど、僕はそういう人とはあまり付き合いたくないな。確かに神様は見えないし、御利益を求める人間の姑息さはあさましいところもあるけれど、それが人間だからな。
ところで僕は自他ともに認める神社オタクだけれど、様々なところで神社のことや神様のことを聞かれる。僕の神様に対する信仰心は、やっぱり他力本願かもしれない。弱い人間なので神様に頼っているんだろうなと思う。
受験指導という仕事をしていると、やっぱり見えないものに対する謙虚さみたいなものが心の中に生じるんだと思う。塾生の健康や精神的なタフさを願うゆえに、目に見えない力に自分のベクトルが向かうんだろうなと思っている。
塾経営という不安定な世界にどっぷり浸かってきたので、わらにもすがる気持ちで神様を頼っている自分がいることは否定できないし、そんな自分がある意味自然なのかなと思う。
神様はいるんですかと尋ねられたら、やっぱりいると思うな。様々な奇跡を見せられると、やっぱりいると思う。どんなと言われても困るけれど、やっぱり気配ってあるよね。
すがすがしさとか、凛とした空気感とか、これでもかというような偶然の連続とか、神様はあの手この手で、存在を僕らに知らしめているような気がするんだよね。
気持ちのいい方向へ心のベクトルを向けていれば、神心から離れてしまうことはないんじゃないかな。
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