ぶらりぶらりとひねもす暮らしかな
震災まえから50肩がじわじわと浸食して、授業中黒板にチョークで文字を書くのがしんどかった。休耕田の草刈りや卓球の指導などで、いよいよ肩があがらなくなり、先月から定期的に接骨院に通っている。だいぶ回復してきたが、まっすぐ腕を伸ばせる状況にはまだほど遠い。
僕のところに時々相談にやってくる方がいて、「疲れて死にたくなることがあるんです」という相談というのか、告白をされる方がいる。
語る内容の深刻さの割には、元気っぽいのだけれど、背中は確かに哀愁に満ちている。
「そんなことみんな普通ですよ。僕なんか毎年2、3回死にたいと思うくらい、精神的にも肉体的にもダメージを食らうことがありますよ。」
相談者は意外だというような驚きの顔をする。本当の事だからしょうがない。
僕は正常であることの意味をよく考える。学年でトップの生徒が正常で、びりの生徒が異常かというと、そんなことはない。たとえ成績が良くても、世の中をなめきって自己中な人はいっぱいるし、成績が悪くても天使のような心をもった素晴らしい人もいる。
自分に自信があって、自分を中心に地球が回っているくらいに人生を達観しているというのか、勘違いしている人は幸せだろうけれど、常に自己嫌悪を抱いて生きている人はしんどいだろうな思う。
苦しいなと思ったら、自分の責任を分散することだな。お金のことも仕事のことも勉強もだ、そうした方が絶対にいい。一人で抱え込むことを習慣化してしまう人は、自殺願望が強くなる。
お金がなくてみじめだとか、今の仕事が辛いとか、精神的な苦痛を抱えている場合は、いったんリセットしたらどうだろうか。感情的な不安は、意外とどうしようもない自己幻想の場合が多い。
自己破産や生活保護の給付を避けたいと言う方は大勢いて、無理をして身体まで壊してしまう人がいるけれど、生きて行くことが困難だと思ったら、放棄すること、そして頼ることは大切だ。
自分に肉体的、精神的な力が復活してきたら、運も向上するはずだと思って、その時を待つことが大切だと思うよ。
いろんな家庭の事情があって、生活保護家庭の経験もしてきたし、頭が悪くて高校も大学も私学しかいけなかった僕は、しょうがないので、高校から大学までの7年間の学費は奨学金とバイト代でどうにか賄ってきた。
今だってそうだ。こんな不安定な仕事をしているものだから、しんどい時は素直に家族に頭を下げている。そのかわり自分が出来ることはとことん頑張ろうとは思っている。ただし無理なことはやらない。
自分が出来ることでしか、家族や社会に貢献できるものはない。そんな当然のことにこの年になってようやく気付いてきた。遅すぎる感があるが、それも己の能力なのでしょうがない。
自分は自分他人は他人、自分が持っていないものを他人に見出して、嫉妬や焦りを感じるのではなく、自分が持っているのもでなんとか生きて行くしかないのに、僕らは世の中に扇動されて、足元を見失っている。
世の中の常識が万人にとっての常識なのではないのだ。自分の良さを否定してまで世の中に迎合することのどない。疲れた休めばいいし、いやになったら一度手放してみるのもいい。
そうそう僕は15歳から25歳までの間、ほとんどテレビを見なかった。世の中に毒されないで、自分のゆがんだ個性で生きて来れたのは、テレビを捨てた選択だったと今でも思っている。
死にたいと思う自分に不安になるのは、生きたいと希求があるからだ。だからぼちぼち生きて行こう。
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