頭(こうべ)を垂れる
世の中の人間関係というものは、経済力や家柄ら学歴など様々な要因や思惑で結びついている。
人間の尊厳というと抽象的だけれど、僕らの生まれた時代を流れている思想の根源は、尊厳という言葉に集約できるのではないだろうか。差別との戦いであったり、不条理とのせめぎあいの中で、追い求め続けるのは、自分が生きているという証であり、歩んでいく人生の理由づけのような気がする。
あまたの書籍を読んでも、必死に仕事をこなしても、ふとした瞬間に、訪れる虚無感に襲われることは誰にでもあるだろう。振り込まれた給料明細や名刺に印刷された自分の役職を眺めても、そこに自分の実態があるわけではない。
70年から80年の人生の中で、自分が納得できる生を満喫することはたやすいようで、実は難しい。多くの別れや病気や事故や命の消滅が、僕らの人生の中では頻繁に訪れる。その繰り返しの中で、僕らは生きる意味を学んでいく。
学んだ先にやって来るのが、実は死なのだけれど、そのことに無常観を覚えると僕らは厄介な存在になる。自分の哲学を構築しなければ、僕らは本当の老いを迎えられない。
僕らは学校教育の中で多くの事を学んできた。しかし残念ながら生きることの大切さは教わっても、死ぬことの尊厳を教わる機会は皆無だった。その結果この日本という社会が抱えている問題に風穴を通すことはかなり困難になってきている。
生きると言うことは、どうのような死を迎えるかだと語った作家がいたけれど、間違いなく誰もが迎える死というものを僕らはあまりにも客観視してしまってきたのではないだろうか。
僕らが考える幸福というのは実にありきたりだ。恋人が欲しい。お金が欲しい。健康でありたいなど。しかし不幸は星の数ほどある。そしてその最たるものが死だ。・・・・・と、僕らの深層心理はそういった社会通念を植え付けられてきた。
すべての結果には因果関係がある。偶然と思える必然を僕らは創造する生き物だ。発する言葉が、文字が、意識が、視線が、行動が、日常を創造して行く。
感謝が大切だと言われる。ありがとうの言葉が人を生かしていくと言われる。それは、すべての命あるものが、必然のサイクルの中で生かされているからだ。その循環の力を神と呼ぶ人がいる。宇宙の意識だと言う人もいる。魂の連鎖だという人もいる。
実体のないものに右往左往することが時間の無駄という人もいるが、僕は右往左往することそのものが、人生だと思っている。
絶望や悲しみが訪れたら、愛する人を想い頭を垂れてみるとよい。家族でも故人でも誰でもいい、自分がここに存在する意味を感じるまで頭を垂れてみればいい。
僕らを縛り付けるものは何もない。生きていることが不自由なだけだ。そして不自由なのは、虚無として死を恐れているからだ。若さは一瞬の輝きでしかないから、多くの人たちがそのことに固執する。若さの延長線上に老いがやって来るけれど、それを成熟とみなす文化があまりにも希薄だ。
稲穂が頭を垂れている。収穫もまじかい。
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