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2015年8月23日 (日)

個性の尊重という言葉の意味を現代人はどうも勘違いしているところがある

自分と言う人間が周りにどう評価されているのか、誰でもが気になることだろう。どうしても好き嫌いはある。言葉遣いや、見た目や、感情的な特質に、個人的についていけないということはあるかも知れない。

学校や職場におけるいじめも、それぞれのストレスや感情の抑圧のはけ口ということが多いだろう。異質なものを排除しようとする意識は、動物そのものが持つ防衛本能の一つではあるが、動物的な本能を抑圧できてこそ人間なのだということを自覚しなければならない。

個性の尊重という言葉の意味を現代人はどうも勘違いしているところがある。つまりはその個人が持っている優れた点や、特性を尊重するということが個性の尊重だと思っている節があるが、そうではないだろう。

身体能力や頭脳の差そのものが個性なのだと思えば、尊重や尊厳という言葉の意味合いが違ってくるはずだ。存在理由のない存在はない。根本的な思想が欠落しているのがどうにも歯がゆい。

劣勢であることが、勝利や成功の反意語として認識されてしまっている社会は、どうしても劣勢であることを阻止しようとする。人生の成功者となることを渇望する人間は多い。しかし成功が多くの犠牲のもとに成り立つものであることを実感できる人間は少ない。

スポーツでは優勝者以外すべて敗者になる。しかし人生に於いては敗者はいない。お金や家族に恵まれていることが成功者だと仮定するならば、お金や家族に恵まれない者は敗者ということだろうが、所詮お金や家族というものは幻想だ。

兄弟がいれば幸せだろうか。伴侶がいれば幸せだろうか。お金があれば幸せだろうか。そういった相対価値を絶対的価値とみなすことが、しいては学校や職場の差別につながって行く。

運動能力が劣っているとか、勉強が出来ないとか、家庭が豊かじゃないとか、空気が読めないとか、様々な差異を子どもたちは差別の対象として行く。自分が差別される前に相手を差別することで自分を防衛して行くのだ。

かつてブログにも書いたが、いじめを防御すべき学校職員の間でもいじめが横行している。塾に現役の教員から相談の電話をもらったことがある。自分の湯呑茶碗に授業が終わって職員室に戻ってみると、チョークが入っているとの電話だった。

彼は20代の教員で、教職を辞したいと電話で言ってきた。塾の先生にでもなりたいとも言ってきた。僕のアドバイスはいたって簡単なものだ。

2年か3年すれば移動がある。赴任した学校で頑張りなさい。それと塾で食べて行くことは、学校の教員をやって生活するより10倍も大変。先生をやめないで頑張りましょう。そんなことを電話口で話した記憶がある。その後音沙汰がないので、彼は無事に教員を続けているのだと思う。

いじめはひょっとするとなくならない。いじめはなくならないけれど、いじめられる人間の命を救うことは出来る。救えないのは、学校の責任ではなくて、携わる人間の弱さが原因だ。命を救うのに躊躇してはいけない。決していけない。必ず周りには行動をしっかりとってくれる人間がいるはずだ。

見たら聞いたら、即行動を起こすことだ。信頼のできる人間に相談することだ。部活のコーチでもいい。駄菓子屋のおばさんでもいい。習い事に行っている先生でもいい。無視してはいけない。ためらってはいけない。

いじめをした人間には、人生に於いて必ずその見返りがやって来る。人生とはそういうものだ。

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