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2015年7月 5日 (日)

能力あるものが成功する社会のどこが悪いのか

テストの結果で学年順位をつけられる。誰もが通って来た道だ。それが嫌だとか良いとかの嗜好には関係なく、中学生や高校生は受け入れなければならない。

クラスや学年でトップをとったものにとって、周りの生徒や同級生が自分の引き立て役になってくれているかのような感覚に陥ることがある。自信が過信になり、やがて傲慢になる。

成績上位者に対し、下位の生徒はもがき苦しむ前に、開き直る。こうやって見てくると、テストの順位を各自に公表するというシステムは、やる気を起こさせる前に、何らかの精神的抑圧や驕りのようなものを助長する短所を哀しいかな持っているようだ。

競争社会は生きる活力を作る反面、弱者の個性や遊戯性をはく奪してしまう。平等社会は建前として存在しているが、能力の格差を根本的に解消する意図がないこの社会は、学歴と財力を所有する人間の優位性を促進し、今や暴走さえしている。

能力あるものが成功する社会のどこが悪いのかと言われれば、反対するすべはないが、僕には納得できないジレンマがずっと横たわってきた。

『やればできるじゃない』こういった励ましの言葉をかける親がさんは多いはずだ。僕も使う。成長するにつれて、社会になじんでいくにつれて、多くの大人たちはこういった励ましの言葉をかけられなくなる。やってもやれないことが如実に見えてくるからだ。残念だ。

つまり若い頃は、多くの可能性があるように見えるがゆえに、希望があるが、大人になれば現実の社会があり、そこで要求されるスキルなり、能力が結果として評価され、選別されて行く。

経済格差と言う言葉がずっと言われ続けてきているが、僕は貧乏であることが悪い事じゃないと思う。学校の勉強と同じで、お金を稼ぐことが上手な人と下手な人がいるのは当然で、そのことが幸福の尺度になってしまっていることが問題なのだと思う。

学校での道徳教育を、ナショナリズムの復活云々といって批判する方々も多いが、幸福な人生を送るための動機づけが、勉強や努力の先に安定した生活があるかのような単純な幻想の押しつけであることが、僕は怖い。真剣に生きる意味や、人間の存在意味を問いかける教育が必要だと思う。

お金を稼いで安定した人生を送りことが、人生の目的ならば、いったいどれだけの人間が人生の落伍者としてドロップアウトしていることになるだろうか。確実に僕も落伍者だろうと思う。

努力をしたものが、生きやすい社会であればいいのだけれど、そうじゃないケースも多い。時流に乗れない人間もいれば、家族の犠牲になるものもいる。それも努力不足と言うのならば、努力とはなんだろう。

皆さんはどう思いますか。

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