リボ核酸や塩基の配列で、人間の能力が決定づけられてたまるか
先日中学校の基礎学力は小学校で培われるという記事を書いた。ところで小学校の基礎学力はどこで培われるのだろうか。それは幼稚園や保育園ではなく家庭だろうと思う。
同じような勉強を同じような時間を費やしてやっても、幼児や児童の学力には必ず個人差が生まれる。頭の良さは実は脳の神経細胞やシナプスの働きによるものだが、その違いの根本はDNAだと言われる。
実はこのDNA、僕が一番嫌いな言葉だ。リボ核酸や塩基の配列で、人間の能力が決定づけられてたまるかというのが僕の持論だ。
DNAの解読が進み、癌や多くの病気さえも予測できる世の中になったようだが、人間の能力をDNAの遺伝子で決め付けてしまうことに、僕は大いなる抵抗を持っている。頭がいいのは遺伝子の賜物だとすれば、頭が悪いのも遺伝子による影響ということになる。これでは,教師や親による、勉強すれば努力をすれば社会で報われるという励ましの言葉が虚無になる。
人間には能力差があるということを、実は多くの人たちが確信しているのにそのことに目を向けない教育がずっと続いてきた。なぜだろう。
めんどくさいからだろうか。考えてもしょうがないことだからだろうか。僕は教育の現場から魂の問題が排除されたからだと思っている。
僕の教え子には、初めてプールに入った日に、泳ぎ方を誰にも教わったわけではないのに、すんなり泳げたという生徒がいる。英語を中学校で習い始めた時に、勉強をしたわけでもなのに、英文の意味がすんなんり入って来たという生徒がいた。これもDNAの問題によるものだろうか。
シュタイナーは人類の過去生の記憶を3つに大別している。場所化された記憶、リズム化された記憶、そして時間化された記憶である。
場所化された記憶というのは、多くの現代人が経験する。初めて訪れた場所なのに、懐かしさを感じたり、場所の詳細な記憶が蘇ってきたりする、俗に言うデジャブというやつである。
リズム化された記憶というのは、体験の記憶である。初めてピアノの前に座った子どもが、突然和音の音を奏でるなどと言うのがそれにあたるだろうか。
時間化された記憶というのは、過去生や未来生の記憶と言うことになる。僕の経験で恐縮だが、40代の中頃にネィティブインディアンの音楽を聴いた時に、突然大地の岩肌に立ちつくす若者の姿が脳裏に現れた。
赤く日焼けした肌に、鳥の羽を付け、腰に麻のような布をまとった若者の姿に懐かしさというのか、自分の姿そのものの意識が駆け巡っていた。繰り返しのリズムや太鼓の響き。僕がジャズに魅了されるわけが何となくわかったような気がした。
太古から信仰されてきた磐座や巨石に異様な関心を持っているのも、ひょっとすると過去生の影響かもしれない。
公立の学校に勤める先生方の中にも、シュタイナー教育に関心を持ち学ばれている方が多い。しかし残念ながら職員室や公の場で、話すことはないらしい。まるで江戸時代の隠れキリシタンのような状況になっているようだが、今の公教育では仕方がないことだろうと思う。
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