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2015年4月27日 (月)

能力主義というなの弱者淘汰主義

塾ブログなので塾の話をしたいのだけれど、塾生の話題はあまりにも身近すぎてプライバシーに係わることなので、書きたくても書けないことが多く、かと言って貧乏話もいい加減読むほうも飽き飽きしているだろうし、書く方も切なくなってきたので、もういかなと思っている(笑い)。

音楽の話も文学の話も、最近はネタ切れになってきた。研ぎ澄まされた感性みたいなものを保持しているわけでもなく、内容が完全に干しあがった状況で、べたな話しか脳裏に登らない。いっそのことこのブログも休刊にしようかと思うのだけれど、それはそれでストレスのはけ口がなくなって、狂い死にしそうだし、実に困った状況に追い込まれている。

そういえば先日、首相官邸の屋上ヘリポートに無人ヘリの小さなおもちゃのような、ドロンだかドローだかそんな感じの名前のものが落ちていて、その物体から放射能物質が検出されてテロじゃないかと大騒ぎになった。

持ち主が自首したようなのだが、もともと原発反対派の人間だったようで、世間に訴え出ようと計画した騒動だったようだ。ブログも書いていたようで、連日テレビニュースが報じている。僕もどうせブログを終了するなら、最後にどか~んと打ち上げ花火でも上げようかと思ったりするわけだけれども、残念ながらその勇気もない。

ところで、原子力発電所が止まって火力発電にたよる割合が増加し、各電力会社は思うがままに電気代を値上げしてきているが、それを容認する国も国で、タッグを組んでやりたい放題だ。今年の冬は灯油やガソリンがだいぶ安くなった。火力発電だって原料費が安くなったはずなのに、値上げというのはふざけている。原子力発電であれば安くなりますよ的な安易な導火線が見え隠れしている状況なわけで、経済を利用した囲い込み作戦が進行中だ。

それと震災後の不況で、中小企業の給料昇給は頭打ち。ボーナスも出て1ヶ月分しか出ないところがほとんどだ。なのに公務員関係の給料はどんどん上がり、民営との差は広がるばかりだ。東北地区の平均年収は230万円ほどになっているが、非公務員の平均は間違いなく100万台になっている。

最近職業安定所に頻繁に行っているのでわかるが、ほとんどの求人の会社の月収は手取り15万円以下である。パートだと6万円から8万円ほどの手取りがほとんどだ。意図的に年齢不問・学歴不問と明記しているが、生活保護申請をしたくなる気持ちがよくわかる。

つまり簡単に言ってしまえば、日本社会に蔓延している経済格差や、自殺者の増加問題というのは、生活力は自己責任だという、能力主義というなの弱者淘汰主義の表れなのだと思う。

本社企業とその傘下にある会社の給料差というものは、憲法に明記されている基本的人権の理念に反するものだと僕は思っている。なんやかやと経済理念や経営理念をたてに構築された資本主義社会は、市場経済の暗闇に暗躍するねずみ講と何ら変わらない気がする。

世界経済はわずか0.03パーセントの人間が、世界経済の90パーセントを支配していると言われている。経済の支配に甘んじる浮世はあっても、思想や生きる価値観までは洗脳されたくはない。

日本で行われてきた教育は、経済競争に勝つための教育であって、人間性云々は建前論であることは周知の事実だ。自分の食い扶持は自分で稼ぐべし。そのためには自己の鍛練と努力が必要である。だから教育は生きて行くための指針なのだと。そこに疑念の余地はないような気はする。

日本は世界でもトップクラスの教育体制を敷いてきた。犯罪が少なく、勤勉で共同体意識が強い、温和な国民だと世界から評価されている。しかし、先進国の中で国民の幸福感がもっとも薄い国であると言う状況はどう解釈すべきだろうか。

世界の状況をかんがみるに、その原因の一つは容易にたどり着くことが出来る。時間労働に対する評価額の差があまりにも大きすぎるのだ。そしてそのことが職業の差別を生んでしまった。労働の代価が多様化するのはいいが、その経済的評価額がこれだけ広がってしまうと、人間は自分の仕事に誇りが持てなくなり、幸福感が喪失されて行く。

勝ち組であり続けることが幸福の前提であるとする国民が増えれば増えるほど、その反動としての負の社会も増幅する。究極的な話をすれば、人間の選別になってはいけない公教育が、早期から暗黙の選別をしてしまっていて、その延長線上にそれぞれのレールが敷かれて行っているのが、この日本の現状ではないだろうか。

高校選択にしろ、大学の選択にしろ、すべてが将来の生き方に影響するとは言えないけれど、努力した人間がいつでもリベンジできる社会システムなり支援がない社会はあまりにも殺伐とした社会だ。

仕事を求め、若者たちは都会へ出て行く。かつての僕がそうだったように。しかし親の老後や様々な理由で田舎に戻る人間たちへの支援は皆無だ。一人っ子や二人っ子が増え、同時に親の介護等の負担も増えている。公共の介護施設は100人待ちなんて言うところがざらにある。

僕らのたどり着く世界は、けっして楽じゃなさそうだ。世界は無尽蔵に拡散し、情報だけが独り歩きしている感があるが、自分たちの実態を掌握する知恵を確保する必要がありそうだ。教育は幸福実現のためのツールじゃなければならない。幸福と不幸を選別するための足かせであってはならない。

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