日本社会のミステリー
一関も桜が五分咲きになった。寒かったり暑かったり、目まぐるしく天候が変わるこの頃だ。僕は近頃まったりしている。
時間があるのだけれど、何となくその時間を消化しきれていない。相変わらずストレス解消に本を読んでいる。最近読み耽ているのは西澤保彦のミステリー小説だ。今月になって7冊ほど読んだけれど、一番面白かったのは、『仔羊たちの聖夜(イヴ)』だ。
昨年からずっと僕と同年代の作家の作品を読み続けている。同じ時代を生きてきた同胞たちの哀愁や諦観、時代の中で錯綜し、そして模索した感情や感性が作品の中で昇華され、芸術としての文字言語が構築されて行く。
人間の精神性はタフのようで実はとてももろいものだ。一見平凡に過ぎていく日常の中に、多くの欺瞞や狂気が紛れ込み、僕らはバランスを失いがちになる。
たとえばミステリー小説のなかでは、些細な動機で人間が殺傷されていくのだが、その動機の深遠を覗き込めば覗き込むほど、いかに僕らが過ごしている日常性が薄氷の上に築き上げられているドラマであることかがわかる。
年を取ればとるほど、心に刻まれてきたひだを取り除くことは難しい。価値観と言えば聞こえはいいが、実のところ生きて行くために便宜上ごまかしてきた、感情の欺瞞が価値観の実態ではないのだろうか。
社会性を育てるという言葉がある。子どもたちに社会性を持たせる教育というのは、周りの空気を読み、自分の立ち位置を判断し、波風をたてないで、人との協調性を持たせることだ。しかしこの協調性というのが厄介な代物だ。
心の中では悪意があっても、我慢する行為をよしとする社会では、ストレスが充満する。嫌な人間を嫌だと言えない社会構造。最終的には逃避をすることで、どうにか自分の崩壊を食い止めようとする。
弱者を弱者のままで支援しようとするシステムが今の日本の大きな欠点だ。肉体的ハンディーも知性のハンディーも改善すべき努力を放棄させ、その状況を受け入れさせようとする欺瞞が僕は大嫌いだ。
自動車にべたべた貼られている『I LOVE 障害者』というステッカー。障害者を愛しているのは一体誰なんだと言いたい。障害者支援は、全くといいほど無視されている日本に於いて、欺瞞的なステッカーをこれ見よがしに貼り付ける精神こそまさに日本の格差社会の象徴だろう。
義務教育までの障害者教育は確かに評価できるものがある。しかし大人になってからの支援は一律的で、支援すべき家族の経済も、労働支援も、精神ケアーも、まったく各家庭の力量に任せてしまう。その結果どれほどの悲劇が生じていることか。
まさに日本社会のミステリーだ。妊娠中に於ける胎児の出産前検査で、障害の疑いがある胎児の存在が難しくなっている。まさに障害を持つ人間を支援するシステムが、この国に存在しないことの証だろう。
成熟した社会というものは、人が安心して生きて行ける社会だ。経済力や学歴の有無で、格差をもたらしている社会に、障害者支援の充実を期待することは困難なことなのだろうけれど、他人を阻害しない精神性を育む教育が本当に必要だ。
今の教育は、競争心をとことん煽り、負けない教育をしている。受験指導もそう、部活もそう。弱者がいることで、自分の価値の安定をはかる社会なんて、本当は異常な社会なのではないだろうか。
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