賢さという抽象名詞を分析するに
一生懸命頑張っているのに困難に直面してしまう時があれば、普通にやっているのにとんとん拍子に物事がうまくいく時がある。それを運がいいとか悪いとか言ってしまえば、そうなのかも知れないが、なにか隠された法則のようなものがあるのではといぶかるのは世の常だ。
半世紀と4年生きてきた。まあ一通りの挫折や困窮を味わってきたように思うが、結婚し子どもにも恵まれ、こうやって曲がりなりにも好きな仕事をやってこれたので、幸福な人生だったのだろうと思っている。
頭のよさと幸福度は比例するのだろうかと、塾教師をやってきた僕は、考えることがある。きっと比例するだろうなという思いが7割。そうじゃないかもなという思いが3割というところだろうか。
学校の成績は見た目ではわからないが、その子の賢さというのは何となくわかるものだ。何となくの中身を言葉にせよと言われても難しいのだけれども、何となくの確実性は意外と高い。
賢さという抽象名詞を分析するに、『こいつにこれを任せたらちゃんとやってくれそうだ』という期待感とでも言ったらいいのだろうか、そんな感じを持たせる人間が賢い人間の定義のような気が、僕の中ではする。
しかし、一方ではこんな問題も世の中では生じる。仕事はバリバリできるのだが、人間性に問題アリという存在。皆さんの周りにも必ず一人や二人はいるのではないだろうか。学歴があって語学も達者、パソコンはブラインドタッチで、仕事との段取りも早い。しかし、異性にルーズで、弱者を切り捨て、利己主義の塊のような人間。
日本という社会は、実力主義の社会だ。実力主義の社会というのは、どれだけお金が稼げるかということに力点が置かれる社会だ。先ほど賢さの定義の話をしたが、お金を稼げるというのも賢さの一つであるだろうことは間違いない。
近年結婚しない若者や、結婚できない若者が増えていると聞く。少子化が深刻なこの国に於いて、ゆゆしき問題なわけだけれど、僕の周りの10代の若者たちに結婚願望を聞くと、面倒くさいという回答が返って来る。結婚が面倒くさい・・・・・。
賢さという定義で分析してみると、個人的には納得できる部分も無きにしも非ずだが、いまの若者たちは、結婚というシステムにある種のアレルギーを持っているのかも知れない。
結婚よりも仕事を選ぶ女性が増えている。一方、結婚はしたくないが、子どもは欲しいという声も聞く。良妻賢母という言葉が死語になったわけではないだろうが、男性が弱体化してきたこの国の病根は根が深い気がする。
賢く生きるということと、賢さという言葉は、副詞と抽象名詞という違いだけではなく、もっと人間の根源にかかわる深い意味があるような気がする。
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