「あんた本の読み過ぎなのよ」
ブログで自分の読書体験を何度となく書き綴ってきた。本に関する記事を読み直してみてふと思ったことだけれど、自分の読んできた本をさらけ出す行為というのは、中学生がベットの下に隠していたエロ本を母親に見つかってオロオロしている感覚に等しいのだということを、今更ながらに思い知った。
しかし書いてきてしまったものはしょうがない。開き直って、恥の上塗りをしたい。
かつては親に言われ、今は女房に言われている。「あんた本の読み過ぎなのよ」
25歳までの僕は、毎月もらう給料をパチンコ代と本代ですべて使い尽くしていた。はっきり言って病気だった。大学を終わってからの4年間は、仕事以外の時間は、本を読んでいるかパチンコをしているかだった。何かに憑りつかれていたのかも知れない(笑い)。
さすがに結婚をし子どもがうまれてからはパチンコとは決別した。煙草もやめた。一方家計における本のエンゲルケースーはうなぎのぼりに増大していった。本貧乏と言っても過言ではない生活だったような気がする。
15年ほど前から、大手古本屋が数件一関に開店し、僕の本貧乏はだいぶ緩和された。100円コーナーの書棚は宝の宝庫だった。読みたくても買えなかった本が100円で手に入る喜びは、天にでも上る気持ちだった。
そういうことで僕の読書病は完治することなく続いている。震災後稲作農業の作業は、田植えと休耕田の草刈以外はすべて委託している。農家収入は赤字になってしまっているが、本を読む時間は増えた。震災後塾の生徒も減ったので、これまたますます本を読む時間が増えた。
ゆえに学生の頃のように年間300冊を超える読書量が震災後復活した。実は家計のことを考えると、のんきなことも言っていられないのだけれど、『暇なときは焦らずに本でも読むか』というのが僕の人生哲学なので、そういうことになっている。
昨年は一関の図書館が新築され、ようやく文化的な図書館が誕生した。僕の長年の悲願だった。これによって、僕が高校生の時に目標として掲げた、生涯読書数1万冊も経済的に夢ではなくなってきた。なにせ新刊本でさえ、リクエストできるのだ。うひょ~という感じである。
自分が読みたい本をただで読める快感は、かけがえのない喜びだ。ただ本屋さんは大変だろうなと思う。これも時代の流れだろうか。
学生時代よく神田の古書店に足を運んだ。読みたい本が定価の数倍なんてことがしょっちゅうだった。今のように図書館の書籍がPCで管理されていて、県内の図書館からPC検索で本を借り出すことなど夢のような時代だった。
神田に行けば目的の本が必ず見つかった。しかしお金はかかった。僕にとって本は、恋人のような存在だ。現実の世界では絶対経験できないことが、本のなかでは経験できる。僕は死ぬ日まで本は手放せないだろうと思う。あとどれくらい、僕は人生を体験できるだろうか。楽しみだ。
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