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2015年3月17日 (火)

勝つとか負けるとか余計なお世話だろうと思う

気持ちのいい努力は必要だけれども、忍従の努力は継続しない。人生楽しくなければ生きる張り合いがない。

勝ち組とか負け組とかそんな言葉が世の中で聞かれることが多い。勝つとか負けるとか余計なお世話だろうと思う。いったい何に勝って、何に負けたというのだろうか。

給料が12万円の人も50万円の人も、おんなじだ。その差額が経済格差と呼ばれているけれど、労働に貴賤はない。努力の本質が、人間性を向上させているのかどうかと疑うこともナンセンスだ。今生がだめなら来生のための努力だと思えばいい。そのくらいのスパンで気長に考えた方がいい。

現状の生活を楽しんでいるのならばOKじゃないだろうか。もし楽しめていないのなら楽しい環境に変えればいい。忍従を強いる努力は、いつの時代も支配者階級のご都合主義であって、せっかく生まれてきた意味をはく奪される権利などはない。

努力は大切だけれど、無理はいけない。無理を続けると、心がゆがんでくる。努力の選択が間違うと、やっぱり楽しくない。だからいい学校を出て、いい会社に入ってもつまらない日常に呪縛されるのだ。

利己的な社会だ。ゆえに利己的じゃなければ生きていけない人も多い。頼れるのは自分だからだ。受験指導を日常の仕事にしていると、競争原理の縮図を目の当たりにする。

世間がいい学校だと認める学校の入学式と、世間がいい学校とは評価していない学校の入学式にやってくる親御さんの様子を見てみるといい。自分の子どもが晴れ舞台を歩んでいく姿を見るのは気持ちがいいと、しっかり親御さんの顔に描かれている。

育てた我が子が優秀な場合は、親は素直にうれしいものだ。生まれてくるときは、どうか五体満足に生まれてきますようにと願った望みが、子どもの成長と共にいい意味でも悪い意味でもその願望はエスカレートして行く。

誰かと比べなければ得られない幸福感などと言うものは、本当は必要ないものだろうと思う。身近な人間が、いいものを持っていれば欲しくなる。財産もそう、学歴もそう、容姿もそうだ。

足ることを忘れ、消費は美徳などと煽られて、物質文明のなかで溺れかかっている存在が、我々人間だ。利便性の中に幸福感を見いだせた時代はまだしも、現在我々の環境を取り巻く物質は、明らかに幸福を阻害するものが増えている。

教育もそうだ。成績が上がらなければ、通信添削だそれ塾だと外のものに頼ってしまう。本人のやる気がなければ、高額な通信添削指導も塾も功をなさないことは、実は誰でも知っている。

幸福は家庭からだ。家庭に温かみや会話がなければ、努力も生まれてこないし、人間的な成長も鈍化してしまう。幸福は共有しあってこそ増幅していくものだ。その土台は間違いなく家庭だ。学校でも職場でもない。ましてお金でもない。

食事をし、寝に帰ってくるところが家庭だとしたら、根本が間違っている。生まれてきたものには、当たり前のことだが父や母の生物学的存在がある。その存在が別れていようが、他界していようが、自分の命をこの世に存在たらしめたものに、感謝すべき場所が家庭だ。その感謝の波動は、幾百年幾千年の時を超えて放射して行く。

そしてそれが努力の根本だと僕は思っている。

今日は岩手県県立高校の合格発表だ。合格した者は、親やご祖先に感謝しよう。落ちた人も親やご先祖に感謝しよう。どちらにでも、幸福の御魂は降り注ぐ。

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