4000回の思い込み
あと記事を8稿アップすれば、このブログも4000稿になる。飽きやすい僕にしては、よくもまあ続けてこれたものだと思う。
個人的な日常の貧乏話に終始して、肝心の教育の話などあまりしてこなかった感があるが、お付き合い頂いてきた皆様に心より感謝申し上げたい。
基本的に怠け者の僕は、何かをまめに続けるという習慣がなかった。非常に感情に流されやすく、喜怒哀楽によってものごとを決定していくタイプの人間なので、どうにもこうにも自分自身が取扱いにくく、右往左往してきた。
このブログを始めて1年後、僕は私立高校で英語を教えることになったのだが、適応性という観念に思考を蹂躙されてきた感がある。
塾でも高校でもそして大学でもそうなのだが、苦手な学問を分かろうとしないで、先生のせいにする生徒が実に多い。僕たちのころに比べたら、今の学校の先生方の教え方はとてもうまい。
ひょっとするとビジュアルな刺激のなかで育ってきたせいか、人の話を咀嚼する能力に根本的な欠落があるのかもしれない。違った見方をすれば、既存の学習能力でない何かを身に着けている可能性があるのだが、自己の表現が現代の子どもたちは一般に苦手だ。
そのことが、対人関係のもつれを多岐に生じさせ、集団的活動に於けるストレスを極度に生じさせているのではないだろうか。
自分が出来ないということを認める勇気が必要なのに、自分を偽りの存在として容認しようとする。あくまでも仮の自分の姿を最後まで押し通す。ゆえに客観的に自分を認識することができず、他人の意見を取り入れ過ぎて、自分を見失ってしまっているのが、現代の若者たちではないだろうか。
その傾向が、恋愛下手にも表れている気がする。このままでは多くの若者たちが結婚の機会を得ることができないのではないだろうか。もしくは結婚に至っても継続することが可能ではないような気がする。
他者を認識する力は、幼少期の適度なストレスと挫折によって学習することができるはずなのに、その機会を家庭環境が奪ってしまっている。簡単に言ってしまえば、過保護でありすぎるとともに子どもに厳しすぎるのである。
感情によって子育てをし過ぎる傾向がある。親は残念ながら未熟な存在だ。こどもにとって神様のような存在だけれどとても未熟だ。だから僕は親としての演技力が必要だと思っている。哲学的な親を演じて欲しいし、愛情あふれる親を演じて欲しい。
生の感情で子育てをしてしまうと、子どもは委縮する。そして自分という生身の存在を守るために閉じこもってしまう。そして他者の観察をすることはあっても、自分の存在を観察することがなくなってしまう。
利己的な人間が悪いわけではない。他人に適応しない個人主義的な生き方が社会のバランスを悪くする。僕はここ8年間で3000通近くのコメントやメールーをこのブログの記事に頂いた。
きっと長い時間かけて思考したんだろうと思われる真摯な意見を頂いたこともある。暴力的な感情をあらわにした文章を送り付けてきた方もおられる。励ましや、批判、そして誹謗中傷的なコメントもあった。
ことに原発や放射能汚染の記事を書くようになってからは、毎日多くの方々からご意見を頂いた。命にかかわる問題に対しては、人間の感情はエスカレートする。ゆえに僕の記事も感情的になった。
多くのコメントやメールを読ませて頂いて、僕が感じたことは、その感情の土台や思考の方向性が非常に教育の現場と似ているなということだった。人は自分の正義を貫こうとする生き物だ。しかしその正義の発端を客観的に見定めることが苦手な生き物でもある。
これは教師にもいえる。そして親御さんにも言える。自分の歩んできた人生の経験値にどうしても人間は頼ってしまう。もしそこに演技という客観的な舞台演出の余裕があればどうだろうか。
社会への適応性・適応能力というものは、時に客観的な演技力を必要とするものだと僕は思う。
4000回近く毎日日記を書いてきて、自問自答してきた僕がたどり着いた、僕の一つの気付きであり、僕の思い込みの想像である。
大験セミナーのHPはこちらです⇒http://daikenseminar.jimdo.com/
« 今日は節分 | トップページ | 心臓はまったくもってすごい臓器だ »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- せっかくの人生だもんね(2018.07.05)
- 長旅から帰ってまいりました(2018.05.04)
- 神様を信じている人と信じていない人の違い(2018.04.26)
- 4761回目のつぶやき(2018.04.11)
- 流転(2018.03.25)
コメント