僕はそう思う
世の中を自己中心的に見ることは、時に批判の対象になるけれど、まあたいていの人間は利己的なので、自己中な価値観はしょうがないだろうと思う。
例えば、人間の頭脳はそれぞれの個性があって、暗記が得意であったり、苦手だったり、感情の起伏が激しかったり、理性的であったりと、十人十色の能力や個性が錯綜する。
そういった錯綜した社会で生きて行くためには、常に他人の感情に気を配り、自分のおかれている立場を認識して、自分という存在の価値観を模索して行かなければならない。その対策として利己主義であることも逆説的には必要なことなのかもしれない。
僕もなんとか半世紀以上生きてきたが、生きる意味とか、人生の場面場面での価値の意味などというものを考えると、生きてきたスパンなど木っ端微塵になるほど僕は動揺してしまう。
人間は生まれてそして死んでいく。その価値が何かと問われたら、僕は困ってしまうだろうな。毎日食事を取り、排便をし、仕事をし、睡眠を貪り、時に快楽を貪ろうとする。哀しみや苦しみが日々訪れ、ほんのとひと時安らぎを覚える。
どうだろうか。僕ら人間は素晴らしい存在なのだろうか。僕はいつも疑問を抱いてしまう。僕ら人間は幸福な存在なのだろうかと。
ある種の哲学者や宗教家は、人間という存在を神と同等の存在とみなすものもいる。いや、神という存在を否定する人間もいるわけだから、僕らの存在はさらに曖昧だ。
人間も植物のように光合成をして、エネルギーを得ることが出来るならば、仕事もお金も必要じゃない。僕らは鳥のように空を飛べないし、魚のように水の中を泳ぐことも出来ない。随分と不自由な存在だ。
10代の後半だったけど、僕は本を読みすぎてちょっとうつ状態になった。ちょうどその時期、大好きだった祖父が他界した。僕は無神論者で、もちろん輪廻転生など信じないかなりアナキーな若者だったから、祖父が急にこの世からいなくなったことが、とても辛かった。涙ぐみながら、毎日を過ごしていた。
当時の気持ちを考えてみるとそれも、僕の利己的な哀しみだったんだろうなと思う。80近くまで生きた祖父は、鮮やかに自分の人生を全うして、向こうの世界に行ったはずだ。
そうなふうに人間にはどうしようもない利己的な好き嫌いがある。生死に関する感情もそうだし、人間や職業人に対してもだ。
僕には嫌いな職業があった(あくまでも過去形であることを強調しておく)。英語教師と坊さんだ。感情的な理由かも知れないけれど、自分的にはしっかりした嫌いな理屈があった。
寺の坊さんは、浄土の世界とか極楽など信じていないだろなうなと思っていた。葬式でたんまりお金がはいるとヅラを被って、歓楽街に出かけていくクソ坊主を見ていると胸糞が悪かった。たしかに素晴らしい坊さんもいるんだろうけれど、僕の身近にいた坊さんは最悪だった。いまだにその印象から逃れることが出来ないでいる。
そして教師だ。このブログでもなんどか書いてきたけれど、中学時代の英語教師はまったくハズレだった。英語には興味があったが、英語の授業はまったくつまらなくて、理解不能に陥った。心から給料泥棒だと思った。
英語の教科書を読ませて、黒板に問題を書いて生徒に解かせるだけの授業ならだれでも出来る。詳しい説明をしろっていの。でもあの教師がいたから、僕は英語で飯を食う人間になったのかも知れない。反面教師という言葉があるが、嫌味ではなく感謝している。
勉強できない生徒には、出来ない理由というのがある。その感情や環境に寄り添ってあげるだけで、生徒の気持ちは救われるものだ。生徒の心を理解しようとしない教師はアウトだと思う。
誰だって得手不得手がある。学校の先生だって、生徒の心理の読み取りが苦手だという先生は多いはずだ。大学でちょとだけ教育心理を学んだって、そんなものは砂漠に撒くコップ1杯の水に等しい。机上の理論はまったく役に立たないことが嫌になるくらいある。
でも、相手に対する優しさや、いたわりがあれば、改善する風は流れると思うんだよね。心から生徒のことを思ってない教師が存在するから、学校の現場は殺伐とするんじゃないかな。
国民のことを心から思わない政治家が増えてしまっているから、生活における苦しみが改善しないんだと思う。思想やイデオロギーでなくて、最初の根本の優しさがないんだな。弱者に寄り添うリーダー的存在が衰退すれば、この社会は間違いなく崩壊に向かうと思う。
宗教や政治、教育でもスポーツでも何でもそうだと思う。建前や利己的な利益を上手に隠しても、本心にいたわりや優しさがなければ、この星に住む人たちの幸福は訪れないと思う。
利己的であることを放棄することは出来なくても、人をいたわる心のスペースはあるはずだ。自分の利益のためにどうぞ勉強してください。どうぞ働いてください。どうぞお金をためてください。でもせいぜい70年やそこらで人間の命は終わってしまう。
競争社会の中で、生きていくのは大変。でもだからと言って、他人を蔑ろにしていいはずはない。弱者に寄り添う心を持てば、必ず困ったときに助けてくれる人がいるはずだ。利己的なものには利己的な風しか吹いて来ない。僕はそう思う。
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