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2014年11月 6日 (木)

神様はどこにいるのだろう

神様を求めて三千里ではないけれど、超越したパワーを求めて、巡礼をする人たちは多い。宗教や各種のセミナーは、いつの時代も悩める子羊たちを魅了してやまない。

生活の安定や富の繁栄を求めて、良い学校や良い企業に入っても、悩みや儚さは消え去ることはないようだ。

もし全知全能の神がいて、この宇宙を統合していると仮定するならば、きっと神様は退屈かも知れない。なぜなら全知全能である神は、全てを知り尽くしているし、偶然やハプニングが生じる隙間はないからだ。

僕がもし神様だったら、刺激を求めて冒険したいと思うだろうな。善なる存在だけでは善を知ることができないので、悪なる存在を創造し、平和であることを知るために争いを創造する。

ただし、その全責任を負うために、神自身がその全ての創造物に、神の息吹を吹き込む義務を負う。

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僕ら人間は、神社仏閣やもしくは果てしない空の彼方に神を求めるけれども、j実は神の本質は我々の内に存在しているのかも知れない。

順風満帆な人生では、僕らは覚醒しないんだろうと思う。困難や苦労は誰しも避けたいものだろうけれど、多くのつまづきが最大の学びになって行くのがわれわれ人間なのではないだろうか。

人生でぶつ受かる壁に、感謝をできる人間が、内に秘めた神心を発露して行けるのではないかと思う。故に困難はチャンスである。生きていく課程で、困難が多い人生ほど、人間の深みが増して行く。

苦しくて、神様を求める人が多いけれど、自分自身が神の息吹であることを知れば、僕らは死ぬまで間違いなくチャレンジャーでいられる。

なぜって、僕らは神だからだ。

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