幸福をじゃまするもの
人生に仮定法というのはあまり想定したくないけれど、東日本大震災で東京電力福島第一原発がもし崩壊もせず、放射能の拡散がなかったなら、きっと人類の終焉が訪れるであろうスパンは、もっと短くなっていたかもしれない。
僕らはあまりにも多くの代償を支払わされた。利益追求の理論が暴走すると、盲目になった群衆は負のスパイラルに身をまかしてしまう。
僕ら人間は日々、多くの犠牲のもとに命をつないでいる。多くの命を頂いて生かしてもらっている存在だ。生命というものはそういうのもだ。生態系のトップに君臨するものが一番偉いわけでもなく、一番価値があるものでもない。
道具を使い、言葉を操り、文字を使用する人類の営みは、未来永劫続いて行くわけではなく、宇宙の時間にしてみれば、ほんの一瞬のことだ。ゆえに謙虚であらねばならない。
人生は突然始まって突然終わるわけではない。偶然の産物として僕らが存在するのであれば、これほどまでに僕らは感情の起伏にさいなまれることはないだろう。僕らが苦しみを感じるのは、苦しみを感じる理由があるのだ。
人は必ず何かに囚われて生きている。恋愛もそうだ。勉強もそうだ。仕事もお金もそうだ。個人の幸福と社会全体の幸福は、残念ながらいつも共有関係にあるとは言いがたい。
しかし少なくとも、他人の幸福を邪魔する意図を持たない限り、僕らは幸福を追従できるのではないだろうか。努力が実るのではないだろうか。
幸福を邪魔するものは、個人個人の強烈な利己主義だと僕は思っている。持てる才能や経済力を、ほんの一握りの人間や組織が独占し、共有しようとはしない。
僕らは間違いなく、社会通念が抱く幸福という観点から考えれば、不平等な存在だ。不平等な存在だからこそ、相互依存と価値観の共有が必要なのである。それがいつの間にか支配と忍従の関係になってしまったこの文明は、幸福よりも不幸を生み出している。
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