教育の究極の到着点は
今度の冬が来ると満54歳。数え年55歳を迎える。他界した父の年と並ぶ。
教える仕事を始めて、32年目に突入するわけだけれど、ぼちぼち幾つまでこの仕事ができるのだろうと思うことがある。それは不安でもあるのだけれど、ある種の期待でもある。
年金も当てにならない。かと言って蓄えもない。退職金が出るわけでもない。身体と気力が続く限り、頑張らなければならないのだろうと思う。そのことが大変だという感情を超えて、自虐的な快感に陥ることがあったりして、結構年寄りになることを楽しみにしている自分がいる。
長男は社会人になって4年になる。ぼちぼち嫁さんを探して欲しいと思うのだけれど、こればっかしは縁なので地道に待つしかないようだ。
次男は短大の1年生。まだまだ教育費にお金が羽を付けて飛んで行く。
29歳の時に、一家の主(あるじ)となり、同時に塾を営む身となったのだけれど、自分で言うのもなんだけれど、運だけで家族を養ってこれた気がする。
絶望の縁に立たされると、変な開き直りが生まれ、道を開拓するパワーが宿る。どうも平凡な幸福感とは無縁のようで、ハラハラドキドキの人生だ。
10月という季節は、1年で一番好きな季節だ。冬は雪が降って嫌だし、春は花粉症でギブアップ。夏は暑くて嫌だ。1年中10月のような季節なら最高なのだが、残念ながらそうは行かない。人生もそうだ。春夏秋冬耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、日々をなんとかやり過ごして行かなければならない。
それにしても今の子どもたちは大変だ。塾教師である僕がそう思うのだから、子どもたち自身は、きっと間違いなく大変だろうと思う。
僕が一番大変だろうなと思うことは、干渉され過ぎることだと思う。子どもを放置していいわけではないけれど、もっと自由な選択肢を与えていんじゃないだろうかと思う。
お金に苦労をさせたくないという親心が、子どもを叱咤激励させるのは分かる。しかしだ。得手不得手というものはある。みんなが公務員になれるわけではないし、いい会社に入れるわけでもない。
大学や短大に入れて、その後の人生が安泰などという社会ならばいざしらず、学力的な力もさることながら、自分にマッチした生き方の選択というものは大切だ。
お金や地位に囚われて、生きる喜びを享受する人生を放棄している人がいかに多いことか。人は一人では行きていけない。たとえお金があっても、地位があっても一人では行きていけない。
勉強ができても、いくら資格をとっても、人生の波に乗れないのは、誠実さが欠けているからだ。僕は一つの信念を持っている。利己的な人間は、人生の最後は寂しい、ということだ。
物理的な孤独は我慢出来ても、精神的な孤独は耐え難い。
打算抜きで、命を惜しまず助けたい人間が、何人いるだろうか。人は自分が死ぬことよりも、愛する人が死ぬことが耐えられない。
教育というものは、究極的には自分の命を守るすべを学ぶことだ。そのためには一生懸命に人を愛さなければならない。簡単なことじゃない。簡単なことじゃないけれど、人間にとって一番大切なことだと思う。
年をとると、だんだん家族や知人や友人がこの星の住人でなくなって行く。自分も遅からずそのメンバーに加わることになるのだが、僕は最後まで人を愛し続けたい。
子どもたちには一杯人を愛して欲しい。愛には打算も賢さも学歴もいらない。70年や80年の人生は、あっと言う間に過ぎ去って行く。その過ぎて行く時間や季節のなかで出会って行く人々は、かけがえのないソールメイトたちだ。
僕は確かに年をとった。僕がこの星に居ることができるのはあと何年だろうか。20年、もしくは15年、10年、知る由もないが、僕は家族を、友人をそして子どもたちを愛し続けたい。
風と虹の教室にやってくる幼児たちが、最近僕をおじいちゃんと呼ぶ。子どもからおじいちゃんと呼ばれる年齢になったことが、なんとなく嬉しい。そんなこの頃である。
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