無ければ無いなりの生活をすればいい・それが僕の人生哲学だ
人生に於いて捨てられていくものは多い。価値観や思い出もそうだろうし、使い古された日用品ももちろんそうだ。
誰かにとって必要なものが、誰かにとっては単なるゴミに過ぎないものがある。世の中の人たちが欲するものを全く欲しない人がいれば、世の中の人が持っているがゆえに欲しがるものもある。
お金や地位や、学歴などというものは、たいていの人が欲しがるものだ。そのために奪い合いが生じる。競争社会が生まれる仕組みだ。
人生に於いて成功する秘訣は、継続する力だと言われる。つまり諦めないことだ。継続するためには自信が必要だ。自分が成りたいもの、手に入れたいものは、現実味があってはじめて追いかけられる。
実は成績がいい人は、自分を優秀だと思っている。だから勉強ができるのだ。逆に成績が悪いものは、自分は頭が悪いと思っている。だから勉強をしない。
自分に与えられているだろうと思われる才能や特技によって、人は自分を判断していく。
一方自分は優秀なのに、なぜこんな境遇に甘んじているのだろうと歯ぎしりをしている人がいるかもしれない。自分より劣っている人間が、自分より幸せそうにしているのを見るほど悔しことはない。やれやれだ。
つまり価値観も財産も地位も学歴も、他人と比べることで優越感に浸れるものであって、劣等感も同様に他人より劣っているという幻想が、喪失感を作り出す。
いい車に乗っていい家に住んでいる人が、借金だらけなんていうことはよくあることだ。貧乏臭い生活をしている人が億単位のお金を持っていたりする。
お金があっても忙しすぎて、お金を使う暇がない人がいる。だから人は人、自分は自分なのだ。
友達がいないと生きていけないとか、学歴がないと生きていけないとか、家庭がないと生きていけないとか、生きていけない理由を次から次へと生じさせる。
基本的に寝る場所と口にするものがあれば、人は生きていける。何かを手に入れた瞬間から、人は苦悩し始める。
ペットを飼わなければ、ペットとの別れの悲しみを経験することがない。大学を受験しなければ落ちる経験をすることもない。人を愛するゆえに、失恋があり、部活をするがゆえに敗北を味わう。
こうやって考えてくると、生きるってことは随分と面倒なことのようだ。ブッタやキリストのように、何もかもすてて、荒野の果てに進み行くことは、僕らには出来ない。出来ないから世の中に迎合して生きていかなければならないのだ。
でも最近その迎合することを無視する人間が増えている。逃避的な引きこもりではなくて、積極的引きこもりである。必要最低限の労働をし、必要最低限のエネルギーを摂取して生きている若者たちが増えている。世間はそれをフリーターとか、非正規雇用者などと呼んでいるが、そう呼ばれることに悲観的じゃない人間も多い。
実は僕はサラリーマンの経験がない。ゆえに夏や冬のボーナスをもらった経験もない。自営業なので、毎年収入が変動する。金のことに関して、計画することが困難な人生である。
でもお金に不自由な人生に、劣等感を覚えたことはない。苦労しているけれども1度もない。無ければ無いなりの生活をすればいいだけだ。
これは僕の人生哲学だ。本は図書館に行けばただで読める。テレビは無くても1ヶ月2400でインターネットができれば情報はOKだ。ジャケットやズボンは古着屋で十分。年間1万円もかからない。
車は動けばいい。軽トラックは人こそ乗れないが、多くのものが運べる。最強の4輪駆動なので、どんな悪路でも雪道でも登っていく。夜の付き合いはいらない。酒が飲みたければ家で飲めばいい。
カラオケももちろん行かない。自分で楽器を奏でて歌っていればそれでOKだ。旅行も行かない。近くの山におにぎりを持って出かけていけば最高の風景と風を感じることができる。
作れるものは自分で作ればいい。そして生活に無理をしないことだ。見栄もいらない。ハゲたからと言ってカツラも必要ない。ハゲはハゲなりの生き方がある(笑い)。
そして人生の終焉が来たならば、適当に執着して、最後は安心してあっちの世界に向かえばいい。
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ご無沙汰しております。Mihoです。
先生、大賛成です!
私も作れるものは何でも作ります。
ここに、こういう棚があると整理できるんだけど・・・と言われれば、元のところにある棚をリメイクしてそれに合わせた棚を作りますし、家の中には家を建てたときの廃材で作った棚があっちにもこっちにもあります。
イベントをするからと、看板があるとねーという事になれば近所の看板屋さんから、切れ端のシールなどをもらってきて段ボール仕立ての看板を作ります。
何でもやるねー、と言われますが、自分の田舎ではそれが基本でした。
祖父母は農家で、母も農の人でしたから、野菜は季節ものが当然で、ピーマンが生らなくなればピーマンは食べませんし、大根が畑にできてくるまではおでんは作れない・・・という具合です。
時々、お金がないと手に入らないという感覚は不便だなぁと思うことがあります。PTAで棚を作っていた時に、用務員さんに「のこぎりを貸してください。」と言ったら「俺の商売道具だ。貸せねえ。」と言われて思案していると、「どれを切るんだ!」と言われて、結局用務員さんが切ってくれました。
材料はあるもので。手間は助けてくれる人がいて。
何とかしようと思うと、何とかなっていくものです。そうやって周りも助けてくれます。幸せだなぁと思います。
(かねごん)
miho様コメントを頂きありがとうございます。賛同いただきありがとうございます。
お金をかけない生活は出来ますね。
ものを大切にする心は、地球の環境にもやさしいです。
ブランド商品なんていらないですよ。
粛々と生きていくことが大切な時代だと思います。
投稿: miho | 2014年10月24日 (金) 10時12分
カネゴンさま
久しぶりに訪問すれば、おお、今夜もエンジン全開だ!カネゴン節、絶好調ではあ~~りませんか!
無いものねだりをするから、却って困窮を招くのです。身の丈に合った暮しをすれば、「善人には眠っている筈の劣等感や優越感を刺激しては、善人を果てし無き欲望と消費へ陥れる商業資本の魔の手に落ちる」こともありません。
どうぞ、郷里の先達に倣って、「雨にも負けない、風にも負けない暮し」をお過ごしください。お元気で。
(かねごん)
Yzakura様コメントを頂きありがとうございます。
かねごん節はだいぶ沈黙しています。書きたいことはいっぱいあるのですが、世間の荒波は厳しいようです。
しかし、失うものがない僕は、やっぱり爆走したほうが似合っているかも知れません。期待していて下さい(笑い)。
投稿: Yozakura | 2014年10月25日 (土) 19時22分