本音を言うと本を読む時間が欲しいから塾の先生をやっている
僕は自然体で生きて行くことが好きだ。見栄をはった生き方をしたくないし、不本意な生き方もしたくない。この地球に生まれ落ちてきた奇跡と喜びに感謝をしながら、とことん自由に生きて行きたいと思って、これまで生きてきた。
人間には器というものがある。自分の器の容量を客観的に知ることは難しいことだけれど、一応知る努力はした方がいい。
自由に生きることと、自由な暮らしとは、表現的には似ているけれども本質はだいぶ違う。
自由に生きるためには、それなりの覚悟が必要だ。自由な暮らしは誰かにおんぶにだっこの生活でなんとかなる。自由にという表現は、副詞なので動詞を修飾する。一方自由なは形容詞的働きなので、名詞にかかる。つまり『自由に』は行動の問題で、『自由な』は状態の問題になる。
自由に生きるために一番ネックになるのはお金だ。僕の人生に於いてもこの問題は避けて通れないものだ。お金が欲しかったら働けばいいのだが、実はその簡単な努力を放棄してお金がないと嘆く人は多い。自由に生きることを決心すると、捨てなければならない日常というのも生まれて来る。
人は都合がいいもので、世の中のために頑張っているんだから、ヒョコリとお金や幸運がやってこないかなと思う。棚からぼたもちの人生は、残念ながらない。間違って1度や2度ぐらいは落ちて来るかも知れないが、3度目はもちじゃなくて、不運だったりする。
労働に対する報酬を考えてみると、それでも尚、一生懸命に働いているのにどうしてお金がないんだろうと嘆いている人は、ラッキーだと思う。逆に頑張ってもいないのに、お金に不自由していない人は大変じゃないだろうか。
世間に神も仏もないと嘆く人がいるけれど、世の中には間違いなく神も仏もいる。人のために頑張っている人には、必ず褒美がやって来る。疑問視する隙間は全くない。ただその褒美が現世的なものとは限らないだけだ。きざな表現かも知れないけれど、僕は自分のやっていることが人様のお役にたつのならば、お金はどうでもいいと思っている。
僕は宗教家でもないし、慈善家でもない。でも人生の最期まで教育者でありたい。政治や権力の枠に縛られない教育者でありたい。今の教育は100人の生徒がいれば、その6割が納得する教育を目指しているが、僕は5%の人が納得する教育でいいと思っている。95%の人間に無視されても、5%の人間が食いついてくれればそれでいい。
世の中に毒を撒いて金儲けしている人間は、間違いなく淘汰される。多くの人間に支持されても、毒なものは毒であって、人を腐敗させて行く。
あの人はいい人だったのに、不幸な人生だったねということは絶対ない。いい人にはいい人なりの終焉が必ずやって来る。
僕は毎年多くの方の人生相談に預かる。教え子であったり、ご父兄であったり、知人や友人の紹介者であったり、多い年には100人を超える方の人生相談に相対する。
恋愛の相談・結婚の相談・仕事の相談・もちろん勉強の相談等様々だ。僕の引出しは読書によるもので、特殊な技量や能力があるわけじゃない。僕は年間200冊から300冊は本を読む。ジャンルはハチャメチャだ。本音を言うと本を読む時間が欲しいから塾の先生をやっている。
だから塾が儲かって忙しくなることを、僕の潜在意識が拒絶している(笑い)。自由に生きることは、やっぱり大変だ。
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