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2014年9月 3日 (水)

だから僕は塾教師になった

さて今日は禁断の本音を語ろうかと思う。

塾敎育は必要なのかという話だ。そもそも塾ってなんだろうと考えてみると、30年間塾教師をやってきた僕も、自問自答の明快な答えは浮かばない。

正直に言うと、家族を養うためにただひたすら頑張ってきた気がする。よく生徒のために云々という塾屋がいるが、月謝をもらっているから出てくるリップサービスで、何のことはない皆生活のために頑張っているのだ。

その月謝の話をしてみたい。「先生の塾は安すぎますよ」ご父兄や塾生からよく言われる。

実は月謝が安いのは、僕が指導に自信がないわけでも、偽善者ぶっているわけでもない。

お金がないから敎育が出来ないという世間の愚痴が嫌いなだけだ。お金持ちだけが教育費にお金をかけられるという社会的状況が僕は許せない。

正確に言うと面白くない!

お金には本当に大変な思いをしてきた。僕が小学3年生の時に、父が交通事故に遭ったのが不運の始まりだった。加害者は未成年者で、車に任意保険もかけていなかった。命こそ助かったが長い入院生活を余儀なくされた。

入院費や補償のお金を支払ってもらえず、我が家は困窮した。僕が中学を終わるまで生活保護を支給してもらい、なんとか生活をしのいだ。

何度かブログでも書いてきたが、勉強が嫌いだった僕は、高校は私学に行った。そんな家計状況だったがゆえに、授業料は奨学金とバイト代で3年間支払った。大学も同様だった。

東京に出たかった。音楽をやりたいがために、その口実として、大学に滑り込んだ。そして卒業後、音楽に未練を残していた僕は腰掛けのつもりで塾講師になった。そしてハマった。

僕が勤めた進学塾の先生は、実に魅力あふれる人達だった。子どもたちが実に生き生きとして輝いていた。こんな学びの場だったら、僕も勉強が楽しかっただろうと心底思った。

失礼千万を覚悟で言わせて頂くが、中学校の先生方の授業は退屈を絵に描いたようなものだった。特に英語がつまらなかった。苦虫を噛み潰したような顔をして教科書を読ませて訳させる授業が面白いはずがない。

生まれてはじめて他人の授業に感動した。それは中学の授業でもなく、高校の授業でもなく、大学の授業でもでなく、塾の授業だった。

だから僕は塾教師になった。

そして僕は、貧しい家庭というものを経験してきたので、少々家計が苦しくても通わさせられる塾を頑張ってやっている。それだけのことだ。

塾は必要かというと、実は必要じゃない。学校の先生が、個々人のやる気を引出してくれるなら、僕らの仕事は必要ない。学校というところは制約が多過ぎて、能力ある先生方のやる気を損ねてしまっている。残念だ。

塾は制約がない。その分、塾教師の個性や能力が、ダイレクトに評価される。おもしろいが、厳しい世界だと思う。正直疲れることも多いけれど、自分が選んでやって来た道だ。最後まで走りぬけるしかない。・・・・・と思っている。

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