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2014年9月 7日 (日)

従軍慰安婦問題

僕は右翼でも左翼でもないし、共産主義思想の持ち主でもないが、この従軍慰安婦問題と言うものに多面的な憤りを感じる。

もし日本が戦争に勝っていたならば、この問題は闇に葬られ、社会問題として浮かんでくることは微塵もなっかたかも知れない。従軍慰安婦問題は敗戦国として求められる謝罪であり補償問題なような錯覚を醸しだしているが、世論がすり替えられていないだろうか。

まず第一に、戦争という非道徳、非日常性のなかで、狂気に走った日本軍国主義の過去を、従軍慰安婦という問題で責任を追求してくる某国の立場も分かるが、もっと根本的な殺戮の責任を日本政府に要求すべきだ。これは靖国問題も同様の矛盾を抱えているが、戦争という失態が、どれほど経済的にも人道的にも国家にとって損失であるかを、日本は知りべきであるし、他国も認識すべきだ。

今現在進行している、内戦や殺戮を阻止するのが我々人類の課題であり、その抑止力として過去の戦争の反省があるべきなはずなのに、過去の戦争の狂気が、さらなる戦争の火種になってはいけない。

このままでは、間違いなく現代文明は終焉を迎える。隣国との信頼を構築出来ない文明国が世界平和の礎になることは到底出来ないだろう。同じく隣国の大国も、イデオロギーが未熟すぎる。

第二次世界大戦の悲劇を知らない世代が、政治の中枢を担っている。感情論や思想論で戦争を論じようとしても、それは土台の無い思想であり、中心軸が定まらない論議である。

女性の精神や肉体を弄んだ戦争の愚かさは、いつの時代も男性中心の支配思想のなかで起こる悲劇だ。戦争を実行しているのが男だという現実が、女性の人権を蹂躙してきた。しかしそれ以上に許されないのは、命の剥奪だということを忘れてはいけない。

今小説もドラマも映画も、俗に言う戦争感動ものが多い。僕は戦争の時代に突入したドラマは見たくない。それは過去の愚行を見たくないという気持ちよりは、生理的に嫌なのである。

子どもたちに戦争の悲劇や悲惨さを教えなければならい。そういう意図なのだろうが、歴史の近代史は戦争史だ。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・日中戦争そして第二次世界大戦と戦争のオンパレードだ。

過去の歴史を学ぶことは大切だけれども、僕は過去の遺物の醸しだす負のエネルギーが、子どもたちに歪をもたらすことのマイナス面を危惧する。

そういった意味では、従軍慰安婦問題がメディアで拡散すればするほど、過去の道徳観の喪失が、現代社会に及ぼす影響は大きい。戦争責任と言うけれど、70年前の戦争の責任者はいない。

戦後、高度成長を遂げた日本の奢りと、過去の屈辱に耽溺する隣国の怨念は、どこまでも平行線をたどっていくのだろうか。慰安婦問題は、お金で解決することなのだろうか。人間の欲望をストレートに暴き出すならば、金銭欲と性欲が文明をひっぱてきた感がある。しかしそれはもう限界にきている。

僕ら人間は愚かである。愚かではあるが、その愚かさを修正できる知恵者でもある。愛を中心にした知恵者でなければ、僕らに明日はない。

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