そんな教師はいないだろうと思うかも知れないが、ここにいる
大人になるということはどういうことだろう。僕はいつも自問自答する。
たとえば、年をとっても変わらない自分をしょうがないなと思うのか、ほっとしているのか、正直自分でもわからない時がある。
人に教える仕事を30年以上もやって来れたのは、きっと教える相手に、何か大切な物を教えてもらいたかったからに違いない。
いくら本を読んでも、経験をしても、それはたかが知れている。自分が見ているこの宇宙は、本当に存在している世界なのか、自分が思っていることは、どれだけ他人と共有できるのか、僕はいつも不安だらけだ。
言葉も音楽も思想も文學も、決して一瞬たりともとどまってはくれない。過去も現在もそして未来もすべてが流転する。
過去世も來世も、ワープロの変換文字のように打ち込めればなんて楽なんだろうと思うことがある。現実が現実を追い求めているうちに、僕はなにか大切なものを忘却して来てしまった気がする。
忘却の不安は、時にやすらぎでもあるのだけれど、孤独癖のある僕は、ついつい自分の存在そのものをふと忘れ去っていることがある。
10歳の頃の自分も、20歳の頃の自分も、そして50も半ばになろうとする自分も、生きるスタンスにそれ程の違いはない。同じ自分なので変わりようが無いはずなのに、変わったかのような幻想を持ってしまう。
人間は進化しているというけれど、なんだか僕には退化してきているようにしか感じることが出来ない。電気部品を発明することが進化と言うならばそうなのかも知れないけれど、自然との調和や、宇宙との調和を考えれば、僕らは忘却のしっぱなしで、大切な何かからどんどん遠ざかってしまってきたように思う。
子どもの頃、大人になるということは自由になることだと思っていた。好きなものを食べ、好きな所へ出かけ、好きなことをやる、そんな自由が手に入るのだと思っていた。
そういった夢想が壊れていくのが大人だと知った時のショックは大きかった。大人になんかなるんじゃなかったと地団駄を踏んだ。でもそれが大人だと諦めれば、それはそれで、ずる賢く生きていればいいやと思った。
だから僕はこうして生きている。
教育というものは、一種のまやかしだと誰かが本で書いていたが、僕もまさにその通りだと思う。誰かの都合の良い存在物にするための洗脳であることに間違いはない。その誰かというのがクセモノだ。あえて国家や権力者とは言わないが、その時代を作っている雰囲気的な存在とでも言えばしっくり来るだろうか。
子どもたちを僕は子どもだと思うことはない。対等の存在だと思って鼻息を荒くして、時に打ちのめされ、時に競争心を煽られ、時に脱帽する。つまりは惨敗のしっぱなしだ。
そんな教師はいないだろうと思うかも知れないが、ここにいる。
人間の才能をはかる尺度はとても未熟だ。いい学校に入っていい気になっていると、あっという間に挫折の時代がやって来るし、仕事の能力が人間の能力だなんて思っていると、あっという間に足をすくわれる。
これも教育が悪いんだろうなと思うけれど、努力をする理由を子どもたちに与えるとするならば、たいていの大人は、学歴と仕事とお金を得ることに行き着くわけで、それ以外でこどもを鼓舞することは、かなりのペテン師かもしくは神に近い人格者じゃなければ出来ない。
僕はペテン師でも神でもないので、やっぱり子どもたちにやる気をださせることは難しいことで、いつもいつも苦労する。考えてみれば当たり前のことで、なにせ自分を鼓舞することができないでいるのだから、困ったものだ。
2日間の完全休が終わった。今日は塾は休みだけれど、中学生の卓球の指導が始まる。さて大人として頑張るか・・・。
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