砂場が池に変身
風と虹の子どもたちは、砂場で遊んでいたと思ったら、水道の蛇口から水を引き込み、怒涛のごとく水遊びを始めた。
今日は雨も降らず、久しぶりの夏の暑さが戻った。座敷で遊ぶよりはやはりアウトドアー的な活動が子どもたちは好きだ。
完成した池を前にして、感慨にふけっているのだろうか。まさか金魚を飼おうなんて考えているんじゃないよな・・・(笑い)。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
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風と虹の子どもたちは、砂場で遊んでいたと思ったら、水道の蛇口から水を引き込み、怒涛のごとく水遊びを始めた。
今日は雨も降らず、久しぶりの夏の暑さが戻った。座敷で遊ぶよりはやはりアウトドアー的な活動が子どもたちは好きだ。
完成した池を前にして、感慨にふけっているのだろうか。まさか金魚を飼おうなんて考えているんじゃないよな・・・(笑い)。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
子育てに失敗や成功があるのだとしたら、それは何を基準に何を根拠に言うのだろうか。
子どもがいい学校に入れることが成功、子どもがいい会社に入ることが成功、伴侶に恵まれ家族を持つことが成功、いろいろなシチュエーションが頭に浮かんでくる。
僕は子育てに失敗はないと思う。成功もないと思う。あるのは子どもとの関係性だけだと思う。
子どもが親をどう思っているのか。親が子どもをどう思っているのか。その精神や魂のバランスがあるのみだ。
愛情や怒りや、時に哀れみが親子の間には錯綜する。子を思わない親はいない。親を思わない子はいない。存在するために構築された親子関係、遺伝子も系譜も関係ない。育てた存在と、育てられた存在の交わりは、宇宙の仕組みのようなもので、凡人がどうのこうの詮索することはナンセンスだ。
教室から夕暮れの土手を眺めると、小さな男の子とそのお母さんが散歩をしていた。この風景の中に、僕は宇宙の愛を感じる。大げさじゃなく、なにものにも替えることが出来ない愛を感じる。
この愛に、失敗も成功もない。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
時々疲れたな~と思うことがある。年を取ったということもあるのだが、体力がだいぶ減退してきたことは否定出来ない。働き過ぎなのかも知れないと思ったが、僕より働いている人は世の中にいっぱいいる。自分に甘えてはいけないんだろうと思う。
自営業の人は定年がなくていいですねと言われる。死ぬまで働けというこのなのだろう(笑い)。
僕は自分で言うのもなんだが、自営業向きだと思う。サラリーマンを続けていたら間違いなくストレスで死んでいたと思う。
自営業向きだけど、社長の器ではない。そのことは完璧に自覚しているので、社員講師は雇わない。1人で頑張っている。かなり意固地な人間だ。
生徒に、先生友達がいるんですかとよく尋ねられる。きっといないんだろうと思われている(笑い)。
1年間にプライベートで、外で酒を飲むことはほとんどないし、誰かとつるんで遊ぶこともない。まあ女房と年に1,2度遠出のドライブに行くぐらいだ。
週末に酒を飲む相手を友人と言うのならば、そういう意味での友人は皆無だ。しかし、僕にも友人はいる。心の友はいる。年賀状のやりとりだけだったり、メールのやりとりだけだったり、電話連絡ぐらいしか出来ないけれど、友人はいる。
よく友達がいないので学校にいけないとか、友達に裏切られたから死にたいなどの言葉を聞くが、友達に依存しすぎるんじゃないだろうか。自分の孤独感を物理的な孤独感で補おうとするけれど、自分の心の声に向き合うことが大切だと僕は思っている。
僕はひとりっ子で兄弟がいなかったので、子どもの頃は猫や犬を相手に遊んでいた。小学校では本ばかり読んでいる変な子どもだったので、同級生からはきっと敬遠されていたのだろう思う。でも全然孤独じゃなかった。
精神が強かったわけじゃない。それが証拠にいつも泣いていた。でも未来に対するわくわく感だけは失わなかった。
自分の将来の夢があったわけじゃないけれど、生きていくことのドラマを自分で楽しみたいという気持ちがあった。時代や、地域性や、家族の特殊性など、様々な環境がある。どんな環境だろうが、どんな能力を有していようが、人生は確実に進んで行く。
友達は大切だ。家族も大切だ。恋人や伴侶ももちろん大切だ。でも自分が一番大切であることを忘れないで欲しい。
自分を愛せる人は、大切な人を愛せる。孤独を愛せる人は、哀しみさえ糧とできる。孤独であることは人間の欠陥じゃないと思う。見せかけの華やぎなんか必要ない。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
さいたま市の全盲の男性(61)が連れていた盲導犬が先月、何者かに刺され、けがをする事件があった。全国に11ある盲導犬育成団体の一つの「日本ライトハウス」(大阪市)によると、盲導犬に対する悪質ないたずらは初めてではないという。最近10年間でも顔を蹴られたり、歩行中にしっぽを引っ張られたりしたなどのいたずらが数件報告されている。
福岡県内の女性(43)は2010年4月、地下鉄で移動中に盲導犬の顔にペンで落書きされたことがある。目の辺りが丸く囲まれ、鼻の下には線が書かれていたという。女性は「目が見えないことと、盲導犬がおとなしいことにつけ込まれた。今回の被害男性も私と同じ悔しさを味わったはずで、周囲の人が気づいたら声を上げてほしい」と話した。【垂水友里香、木村敦彦】(毎日新聞)
とってもとっても悲しい事件が起こった。困った人を助けるどころか、全盲の方をサポートしている盲導犬を刺した人間の卑劣さは許せない。
動物や人間を殺傷したり、頑張っているものの生きる権利を剥奪する存在は最低だ。
僕ら人類の歴史を学べば分かるように、戦争の歴史だ。異質なものを排除し、土地や食料のために人間は人間や動物を殺戮(さつりく)してきた。人間のDNAのなかには、自己保存のために暴力性や攻撃性の行動原理が間違いなく刷り込まれている。
公園の猫や鳩を毒殺したり弓矢で撃ちぬく人間がいる。その行動は決して異常じゃない。なぜなら手段はどうあれ、保健所や多くの駆除対策で、公の場で毎日行われていることだ。
しかし、その行動の原理が問題なのだ。僕らは結果だけに目が行きがちだけれど、その行動を起こす人間の精神にとことん寄り添ってあげなければならない。
弱者をターゲットにする人間は、同じく弱者であることが多い。これは学校でも職場でもそうだ。いじめをやめない人間の心のなかには、自分が気づいていない闇を抱えている。
そしてその闇が、光を拒絶した時、人は狂気に足をすくわれて行く。
動物たちは、たんなるペットではない。僕ら人間の心や精神をいやしくくれる、光の存在だ。言葉こそ発しないけれど、僕らの魂を彼等はキャッチしている。
愛することを忘れた存在は決していない。思い出して欲しい。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
家内はヨガをやっていて、インストラクターの証書みたいなものを頂いている。激務でクタクタになっている僕は、しょっちゅう家内の実験材料にされる。お陰で、最近はかつてのように、歩けなくなるような腰痛になることもなく、どうにか生きている。
昨夜、その家内のヨガの先生のまた先生の先生だと言いうインド人の方からの手紙が英文できたから訳して読んでと言われた。A4版に細かく書かれた英文の手紙である。
仕事が終って帰ってきて、また英語かよと思ったけれど、そこは我が家の支配者である山の神、逆らうことなく老眼鏡をかけ、10分ほどかかって、素直に訳して読んであげた。
そうしたら女房が、「やっぱりあなたの訳のほうがわかりやすいわ」とのたもうた。
????????????
なんのことはない、ヨガの協会から日本語訳の手紙が添えられていたのである。
耐え難きを耐え、忍び難きをしのびつつ、かねごん爺は日々生きていくのであった・・・・。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
9月の予定です。
9月2日火曜日は、家内が主催する『こども教室風と虹』の教室である我が家の座敷で、イギリスから来日しているジョンリビングさんのライアーコンサトが開催されます。コンサートの準備等で大験セミナーの塾指導はお休みとさせて頂きます。その振替として、9月23日火曜日の秋分の日は塾を開講します。
もう一つのお願いです。
9月20日土曜日は中総体新人戦の地区大会です。地元中学校の卓球のコーチを仰せつかっている僕は、この日ベンチコーチに入ります。決勝戦まで残るつもりですので(笑い)、夕方までは塾に戻れないと思います。夕方5時から塾を開けます。
都合が悪い生徒は、月曜・水曜日以外の曜日に振り替えをお願いします。
もう一つ。
僕が講師で行っている短期大学の授業が、夏休みが終り9月末から始まります。前期と講座の曜日が変わり、火曜日・水曜日が僕の講座日となります。夕方3時30分までは短大にいますので、塾の指導はそれ以降の時間帯となります。後日詳しい連絡を行いますが、ご理解の程よろしくお願い致します。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
普通であることが非常に困難な時代だ。
自分らしく生きようと思っても、周りとずれていると、変な目で見られるし、その他大勢が求める価値観を、無理やり押し付けられてくる。
宗教も政治も敎育も、そして経済も、ほんの一握りの権力者たちと、ほんの一握りの大金持ちたちに牛耳られ、ほとんどの民衆は、忍耐と諦観のなかで日々の生活を終えていく。
頭の悪い奴と貧乏人は世の中から阻害されていいのだろうか。いいはずがない。いいはずがないけれど、この社会は金持と学歴があるものが成功するようにアレンジされている。
教育上は平等だというが、人間は何の因果か不平等の塊だ。逆に不平等だから、頑張らなきゃいけない。頭が良い奴が30分で理解するところを、凡人は2時間も3時間もかかる。そのことにムカつくと言って、やらなければますます大変な差が生じてしまう。
スカートをはくことができないで、学校にいけない女子生徒。マスクを付けないと家の外に出ることが出来ない人。朝起きられない人。人と話すことが苦手な人。いろんな人がいる。
利己的な人間は弱者を駆逐するが、悲しいかな彼等もまた弱者になる。NOと言えなくてもいい。心が弱くてもいい。成績が悪くてもいい。かっこ悪くたっていい。あなたはあなたであり、それ以外の何ものでもない。
誰も否定出来ない。誰も軽蔑なんかできない。誰もあなたを無視できない。あなたがいるから世界が存在するのだ。
この世界に、普通も特别もない。あなたがいて、そして多くの人間がいる。それだけのことだ。単なる人間だけれど、その存在はすべてであり、誰もそれを否定することなどできない。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
昨年のクリスマスに、ホームセンターで半額で売っていた観葉植物の木を買ってきた。100円ショップに売っていた木箱の器にいれて、毎日水をやり、肥料をやって育ててきた。葉っぱも枝振りも倍ぐらいになった。
実は不思議なシンクロニシティが起きている。夏になってからこの木の葉っぱの枚数と塾生の数がリンクしているのである。
葉っぱの総数と在籍する生徒数が同じ数なのである。今日、水をやるときに新しい葉っぱが出ていた。夜、入会の電話があった。
ということは、また同じ木を買ってきてどんどん葉っぱが増えれば、塾生が溢れだすのだろうか。そんなことはないよな・・・
葉っぱの周りに鎮座するカエルの置物もかなりあやしい。自分でチョイスしながら、こんなことを言うのもなんだが、この塾には座敷わらしがいるかも。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
石田衣良にハマっている。
息子のイチオシの作家だったのだけれど、テレビやメディアに露出する作家に対しては、変な先入観を持っていて、ちょっと敬遠していた。
代表作の『池袋ウエストゲートパーク』以外の本は大体読了した。実は石田衣良は僕と同世代だ。というか、同学年だ。
同じ時代を生きてきた感性というのか、視点というのか、実に共感する風を感じる。文章がうまい。いい意味で読み手をどんどん暗闇に引きずり込んで行く。しかしその暗闇には必ず光が差してくる。やられた~という感じだ。
彼の恋愛短篇集は、実にエロい。気持よくエロい。常々学生たちに僕は話しているのだが、人間には2種類しかない。かなり変態な人間と、普通に変態な人間だ。石田衣良も同世代の人間として、そのあたりの人間観察が、同類のような気がする。
さて石田衣良の小説で僕が一番おもしろかったのは、『ブルータワー』だ。436ページの大作だが、一気に1日で読み終えた。ストーリーを言ってしまうと、読む楽しみが半減してしまうので控えるが、人類の愚かさと、人類の素晴らしさが、見事にパラレル化した未来小説だ。秋の読書の1冊に是非加えて頂きたい。
ところで息子(次男)と文学の話で盛りあがったのは、村上春樹以来である。息子に「石田衣良はお父さんと同い年だよ」と言ったら、変な沈黙があった。
・・・・・僕がしょうもない大人だということだろうか。まあいっか。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
学校の宿題についての何度目かの記事になる。
学校の宿題がなければ今の中学生や高校生は勉強をしないんだろうか。宿題をやらなければならないのは、義務だという。まあ学校に勉強しに行っているのだから、教科の先生が宿題として出す課題は、必然的にやらなければならないのだろうと思う。
宿題のために削られる多くの時間。宿題が効率よく消化されていっている生徒と、単なるストレスに終ってしまっている生徒。
世の中に出れば、仕事上嫌なことがいっぱいある。学校の宿題はそういった将来に対する忍耐の訓練だという先生がいるが、僕はその考えには反対だ。
宿題をやっても成績が伸びないのは、宿題のレベルがその生徒にあってないからだ。難しすぎてやる気をなくし、ただ解答を写して、ミミズがはったような文字を書き連ねて提出する宿題に何の意味があるのだろうか。
莫大なプリントが毎日刷られ、これでもかと宿題が押し寄せる。宿題をやれば、いい高校やいい大学に入れるんだという洗脳教育に早く気づかないと、自主性を喪失した大人が大量生産される。
パソコンのソフトでの勉強もそうだし、サテライトのような予備校の授業もそう、一見合理的な学習手段のように思えるが、果たして本当にそうだろうか。泥臭く努力をするのではなく、かっこ良く合理的な勉強をすることが、スマートで現代的だというのなら、そこにこそ大きな落とし穴があるような気がする。
今の教師は、学校も塾も教えすぎる。そして挙句の果てに宿題の猛攻撃だ。子どもたちは、何をやらなければならないのかを考える隙間さえ与えられない。放任も愛なのだということを知るべきだ。本来の探究心であるとか、積極性であるとか、工夫する姿勢が阻害されている。
僕の通った私立高校の先生方は、その点ではとても優秀だった。なにせ3年間どの教科の先生もほとんど宿題などださなかったのだから。それどころか、「今日は気分が乗らないので自習」などと言って新聞を読んでいた教師もいた。強者(つわもの)である。
勉強は自分で工夫してこつこつやるもの。そういった時代錯誤の勉強方法だったので、僕は成績がかんばしくなかったのだろうと思う。夏休みなどに、予備校に通う良家の同級生が羨ましいと思ったわけではないけれど、なんと言うのか、学校の教師も含め、誰かに頼って勉強することが嫌いだった。
当時の母校は開校以来国立大学に誰も入ったことがなかったし、大学進学なんていうのは学年で5人もいなかった。間違いなくほとんどが就職だった。だからこそ僕は、闘士がわいた気がする。完全な天邪鬼(あまのじゃく)だ。
宿題がなかったお陰で、わけの分からない身勝手な勉強を終始一貫してやった。・・・・でこんな変なおやじになってしまった。
夏期講習中、暑さで集中しない生徒たちに。勉強しないと、俺みたいな変な人間になるぞと脅かしたら、背筋を伸ばして集中しだした(爆笑)。
もちろん僕の塾では、夏休みの宿題なんかない。勉強したい生徒は、かってにプリントをコピーして持っていく。僕はそれでいいと思っている。
今の若者達の恋愛観や結婚観を見ていると、さばさばしているというのか、見極めが早いというのか、僕らのような情念がからんだ泥臭さがない(笑い)。これも与えられ続けてきた勉強の置き土産のような気がしてならない。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
僕の住んでいる山里にも間違いなく秋がやってきた。お盆の涼しさとは打って変わって、いきなり残暑が厳しい日が続いているが、自然は秋の装いが始まった。
僕の家の隣家には、まだ茅葺屋根の現役の納屋が建っている。
草花の向こうに茅葺きの屋根が見えていると思うが、茅葺きをする職人も少なくなり、維持が大変なようだ。
茅葺屋根と言えば、水沢にある正法寺は日本一の茅葺屋根の本堂で有名な曹洞宗の禅寺だ。
そう言えば、忙しさにかまけて今年の夏はまだ参拝に出かけていない。近いうちにゆくり時間を取り、出かけてみたいと思っている。
今年のお盆休みは2日間しか取れなかったので、どこにも出かけることができなかった。雨と高温が続いているので、ものすごく草が伸びる今年の夏は本当に草刈りが忙しい。休みの日はいつも草刈り作業だ。
早く涼しくなってくれないかな・・・・・
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合気道やある種の波動を扱う仕事や訓練を受けた人は分かるかと思うが、人間にはその肉体とは別に、その人の心というのか精神から醸しだされるエネルギーというのか、簡単に言ってしまえば、いわゆる気が放出されている。
僕はその気に普通の人より敏感なようだ。ある人はオーラと呼んだり、波動と呼んだり、エーテル体と呼んだりしているが、図で表すとこんな感じ。
スポーツでも勉強でも、集中している人の醸し出す気は静謐(せいひつ)で、いい緊張感を周りに放射し、凛としている。
僕の勝手な持論だけれど、人間の頭の善し悪しは、この集中力,カタカナで言えばコンセントレーションの有無で決まる気がする。集中力がない人は、理解力が鈍い。それだけの違いなのだが、その連続の日々が大きな相違を生み出す。
集中力は呼吸に関係してくるし、視線に関連してくるし、愛そのものにも絶対関係してくると思っている。
集中力を培う訓練は読書がいい。もちろん書道や瞑想などもいいのだろうけれど、読書が一番気軽にできて楽しむことができる行為だ。
僕は手相が見れたり、名前の鑑定ができたり、過去生やオーラーが見える人間だと一部の人間から思われていて、ひっきりなしにその手のアポイントがやって来る。
僕に備わっているだろうと思われているそれらの能力のほとんどは、本から得た知識だ。つまり自他共に認める読書オタクの賜物である。残念ながら世間によく言うところの、見える人間ではない。
手相の本は学生時代に30冊は読んだ。名前に関しては、自分の子どもに名前をつけるために、どれだけ読んだだろうか、忘れた。
前世療法や怪しげな心理学関連の本は、大型の書棚が埋まるほど読んだ。あるときなどはオーラーが見えるための訓練書なる怪しげな本まで買ってきて読んだ。病気だ(笑い)。
以前のブログでも書いたが、大学を卒業して、塾教師を始めた頃は、給料の半分くらいが書籍代で飛んでいった。どうみても本依存症である。
良く女房から、「あなたのその自信はどこから来るの」と言われる。きっと学生時代に勉強もせず、音楽ばかりやってきた僕を見てきた彼女の偽らない疑問なのだろうと思うのだけれど、自分でいうのもなんだけれど、読書量だと思う。
残念ながらなのか幸いなのか、僕には東大出の知人や友人はいない。しかしその他の大学の知人友人ならばいる。僕のような中途半端な人間が、世間でいうところの1流出の人間と、塾業界でしのぎを削って生きてこれたのは、読書量のお陰だと思っている。
友人の岐阜の上野義行先生は、トイレには立派な神様がいるので、トイレ掃除はしっかりやらねばならないと日頃言っているが、同じように本の神様も間違いなくいる。
本を書いた人間のエネルギー、その本を出版した人間のエネルギー、そしてその本を埋めている文字のエネルギー、本を読む人間に影響を与えないはずがない。
これもかつての記事で書いたことだが、高3の時に生涯読書冊数一万冊を目標に掲げた。毎年300冊読んで、30年以上かかる冊数になる。今頃は読み終わっていなければならない年齢なのだけれど、諸所の都合により、その半分ぐらいしか読んでいない。
途中挫折しかけたけれど、あと20年生きるとすれば73歳。5000÷20で毎年250冊ほど読めばクリアーする数字だ。今年はそのペースを超える本を読んできたのでなんとかなんるんじゃないだろうかと思い始めている。
本を読むようになって、人の感情や感性がキャッチできるようになった気がする。つまりは相手の気のようなもののおぼろげな姿を、捉えられる瞬間が増えたような気がする。あくまでも自分勝手な思い込みなので、客観性などないのだけれど・・・。
「先生年を取ったのだから、もう本をそんなに読まなくていんじゃないの」と、塾生に言われる。
正直に言おう。僕は老後のために本を読んでいるのではない。もうターゲットは来生に向っているのだ。
ワッハッハ。
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うちの鬼嫁が、この猛暑が厳しいこの時期に、僕に土木作業を命じてきた。玄関前にレンガをひきつめて欲しいという至上命令だ。
ホームセンターに行って、女房のデザインする模様を実現すべく、砂やセメント、そしてレンガ・敷石などを買ってきた。
夏期講習が終わったとは言え、普通の塾がある。朝仕事をしながら3日間で、鬼嫁の要求する仕事を完遂させた。
何が大変だったかと言えば、手作業でコンクリートを削り取ることだった。コンクリートカッターなどというものを買う余裕もないので、ハンマーと鉄棒でこつこつと打ち砕いだ。
素人作業としてはまあまあの出来ばえではないだろうか。予算はしめて13500円。僕の労働費はいかほどだったのだろうか・・・・。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
大手予備校の代々木ゼミナールは23日、17都道府県で展開する校舎の7割超を来春までに閉鎖するのに伴い、希望退職者を募ることを明らかにした。今後はインターネットなどを活用し、教室や小規模な拠点で授業する方式への転換を目指したい、としている。
代ゼミによると、閉鎖するのは全国27校中20校で、校舎を拠点とする授業は、東京の本部校や札幌、新潟、名古屋校など7拠点で続ける。希望退職を募る対象や人数は明らかにしていない。
生徒や保護者には9月以降に再編計画を順次説明するとしている。【時事通信】
講師をはじめ、多くのスタッフが仕事を失うことになるわけだけれど、人事ではない。生徒が集まらなければ路頭に迷うのは、僕ら塾教師も同じだ。
予備校業界は、東進スクールの一人勝ちと言われている。テレビやウエーブ上のCMを見ても東進の勢いは飛ぶ鳥を撃ち落とす勢いだ。
仙台駅そばにある代ゼミは、僕らの世代では予備校の代名詞だった。同級生で浪人するということは、仙台の代ゼミに通うことだった。
今は私立大学全入時代と言われ、選ばなければどこかにはお収まる。必然的に浪人する高校生の割合もぐんと減った。
予備校受難の時代と言われている。少子化の中で、生き残りをかけた戦略が火花を散らしている。僕も傍観している場合じゃないな・・・・
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
夏期講習会(夏期学習会)が終って、塾生から残暑お見舞いのはがきをもらった。暑さでバテていたが、はがきの文面を読んで、背筋がシャキッとした。
小学校から中学にあがり、部活動や勉強が大変なようだ。しかし、頑張っている。そのことが大切だ。
よく頑張り過ぎないでいいなんていう大人が多いが、頑張らなくちゃならない時は、頑張るしかない。
ふと気が抜けてやる気の出ない時代というものはある。僕の中学時代みたいに(苦笑い)。しかし頑張ろうと思った時は頑張るべきだ。
頑張ることに遅すぎることはないし、時代が変わろうと、社会が変わろうと、頑張る人間には必ず未来が輝く。
夏休み明けのテストが終って、「頑張ったのに点数がいまいちだった」と嘆いている人がいるかもしれない。でも、頑張ったのなら、必ずその努力に対する収穫はやってくる。だから投げやりになったり、努力を放棄してはいけない。
中学時代は大変だ。高校時代も大変だ。
大変だと思うのは、頑張ろうとしているからだ。いや頑張っているからだ。だからその大変さを勲章だと思えばいい。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
朝自宅から塾に向かって出発したのだが、ふと気づくと軽トラックの窓にクツワムシが必死に張り付いていた。
クツワムシもこの里山の風景に飽きて、街に出てみたいのではないかと思い、そのまま一関市内に僕は軽トラックを走らせた。
東工業団地のエッグドーム付近の牧場で姿が消えた。きっと新しい住処を発見して飛び去ったのだろうと思った。
市内のセブイレブンで麦茶を買おうと車を停めた。
根性があるのか、僕の軽トラックが気に入ったのか、彼はまだ車の窓枠にすがりついていた。17キロの一匹旅である。
街なかで事故にあっても可愛そうだと思い、近くの草むらに放してあげた。僕に対する愛情表現だろうか、思いっきりかじられた。ドンマイだ。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
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最近ツイッターで上記のような警告文が表示され、写真や動画が削除されるケースが増加している。
かつてはエロ画像が多く対象になっていたが、最近は政治批判や原発関連の暴露写真等が検閲され削除され始めている。
それと関連があるのかどうかは分からないが、僕のブログのアクセスカウンターの数字が0になってはじめからカウントし始めた。かつてもそんなことがあって、アクセス数の公開をやめた経緯があるが、プロバイダーに文句を言うのも疲れるし放置だ。
原発のことにふれた記事を書いた時に何らかのトラブルが生じやすい。アクセス数が多いブログが検閲に合いやすい云々なんていう情報もあるが、意図的にアクセス数を0にしてもらうのはひょっとしたらラッキーなのかも知れない。
ところで僕のブログの総アクセス数がいくらなのか分からない。いきなり1日に10万アクセスの訪問があると思えば、いきなり500アクセスを割ることもある。誰かに操作されているのだろうか。不思議だ。
ところでアクセス数って、自動車の走行メーターと同じで、自分では改ざんできませんよね。いったいどうなっているんだろう・・・・。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
先月の7月28日からスタートした夏期学習会も昨日終了した。16名が参加してくれた。夏期講習会の参加人数が、ようやく東日本大震災前の人数に戻ってきた感がある。
震災後、福島・宮城・岩手の被災地の人口減少は顕著だ。一関市もその例外ではない。そんな中、市内の学習塾の数は増えることはあっても減ることはない。故にどこも厳しい経営状況だろうと思う。そんな中で、塾生の数が復活してきた僕の塾は、幸いなのだろうと思う。
塾はなんとか開校25周年を迎えた。9坪ほどの小さな小さな個人塾だ。百姓をやりながら、高校や短大の英語の非常勤講師をやりながら、どうにか今回の震災の困難を乗り越えてきた。いや乗り越えつつある。
今回の震災で塾もかなりの痛手だったが、それよりも農業が大ダメージだった。田植え前に苗の消毒をするくらいで、あとは無農薬の水耕栽培をやってきた。稲刈りもコンバインを使わず、手作業で天日干しの収穫をやってきた。
ぼやけてしまっているが、震災前田んぼで作業をするかねごんの姿である。しかし東京電力福島第一原発がメルトダウンし、この僕の田圃にもセシウムが舞い降りた。さいわいにも基準値以下の放射線量であったが、無農薬栽培をやってきた僕のポリシーを踏みにじるこの悪夢に、僕は天日干しの収穫から脱落してしまった。
震災前は、市場価格の2倍ほどで買ってくれる消費者の方もおられたが、放射能の影響を受けた僕の田圃のお米は、農協に出荷するのみである。コンバイの作業を委託すると、農業収入は完全に赤字になる。
啄木ではないが、じっと手を見るの心境だ。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない⇒震災特別支援コンサート
自他共に認めるカエル好きである。塾の郵便ポストはカエルだし、塾の指導室にも様々なカエルの置物が鎮座している。
今朝起きると、テラスにカエルが黄昏れていた。僕はこのカエルのなんとも言えない身体のラインが好きだ。エネルギーが凝縮され、いつでも飛翔のジャンプができるカエルが羨ましい。
一方世の中で一番苦手なのがヘビである。姿を見ただけでゾッとする。龍が好きなのにヘビはダメという自分の嗜好状態が、自分でも謎だ。
小学校の低学年の頃、田んぼの畦道で、ヘビに飲まれようとしているカエルを助けたことがある。不思議なもので、ヘビににらまれたカエルは、まるで呪縛にかかったように動けなくなる。
僕も女房ににらまれると動けなくなる。カエルの気持ちがよく分かる・・・・。
1年に何度か気絶するほど美しい夕暮時が僕の住んでいる里山に訪れる。毎日太陽がのぼりそして沈んでいく。
1日たりとも、一瞬たりとも同じ時間はやってこない。自然も宇宙もそして我々人間も、どんどん変わっていく。当たり前のことだけれども、とっても不思議だ。
夕暮れ時は、心が優しさに包まれる。明日はどんなドラマがやって来るのだろうと、気分が覚醒する。
東京暮らしから逃れるように田舎に戻ってきた時は、無性に夕暮れ時の空が哀しかった。まるで自分の人生が黄昏れていくようで。
年を取ると、雑念が減っていく。欲望が削ぎ取られていって、素の自分と向き合うことが少しずつ出来るようになる。
夕暮れの空が、老人に似合うのはそういうことなんじゃないだろうか。
美しい夕暮れ時になるとマイルスのこの曲を無性に聴きたくなる。僕の軽トラックのCDデッキに、このアルバムがオンエアー中だ。
新学期も始まる。今日は夏期学習会の最終日。ちょっと一息だ。
夏の全国高校野球を賑わせている東海大四高校・西嶋亮太投手の「超スローボール」について,世間では賛否両論が渦巻いているが、個人的には、僕は彼のような選手は大好きだ。
こうじゃなくてはいけないという常識がまかり通る世の中だけれど、そもそも常識というものは、みんながそういうものだと決めつけていることであって、一種の幻想でしかない。
先日の甲子園は土砂降りの中で行われ、外野に抜けているはずの打球が、セカンドゴロになるケースがあったが、野球は土砂降りの中でやるものではないという常識が、もう後がない日程のなかでは、試合を強行する大会運営もある意味常識であって、そういった見識からすると常識というものは、常に非常識と隣り合わせにある曖昧なものだと思う。
速ければボールが打てない。しかし遅すぎてもボールは打てない。それは常識だろうかそれとも非常識だろか。
卓球でもそうだ。ピンポンは弾むものだという常識があるが、下の映像を見て欲しい。弾まないボールもあるのだ。
人生のあらゆる場面で、僕らは常識を要求される。スポーツも仕事も恋愛も趣味も、もっと自由でいんじゃないかな。カテゴリーにどっぷり浸からなくてもいんじゃないだろうか。
昨日の卓球の指導は、お盆明け久しぶりの運動だった。スマッシュやドライブのブロックをきっと1000本以上はやっただろうか、今朝は身体のふしぶしが居心地のいい痛みを感じる。
中総体の新人戦までちょうど1ヶ月。花泉中学校卓球部は、女子は東北大会や、全国大会に連続出場を決めているが、我が卓球部男子は2年前こそ県3位に食い込み東北大会に出場したものの、一関地区の優勝からは6年ほど遠ざかっている。
取りあえず生徒の前では、県大会出場を目標に掲げているが、本音は優勝をさせたい。昨年は完全なる僕のオーダーミスだった。勝てる試合を落としてしまい、県大会出場を逃してしまった。メインコーチにもご父兄にも、そして何よりも生徒たちにがっかりな想いをさせてしまった。申し訳なく思っている。
花泉は良い意味でも悪い意味でも、他の中学校から常にマークされる(笑い)。他の中学校の監督コーチからは、僕が鬼コーチのように思われているフシがあるが、決してそんなことはない(笑い)。
ただ練習量はキツイと思う。昨日も打ち込みでふらふらなった生徒に「おまえと俺は年がいくつ違うと思うんだ!40以上離れているんだぞ、そんな俺に打ち負けてどうすんるんだ!」と僕。
やっぱり鬼コーチだろうか・・・・・。
内申書に傷がつかぬ「出席停止処分」
今や、学校は伏魔殿である――。
万が一、わが子がいじめられている事実を知ったら、親は行動を起こす前に、まずはこの事実を頭に叩き込んだほうがいいだろう。現代の学校は、法の支配すら及ばない魔界になり果てている。
私は数年前、某都立高校のPTAから、悪質な暴力教師を解雇させることはできないかと相談を受けたことがある。話を聞いてみると、その教師の所業はすさまじいものだった。過去数年の間に、生徒11人に暴力を振るって骨折させたというのである。当たり前だが、学校の外なら間違いなく刑事事件である。
ところが、驚くべきことにこの11件の暴力事件は、一切、学校の外に漏れていない。なぜなら、暴力を振るわれたことを学校に訴え出た生徒のほうを、校長が次々と退学処分にしてしまったからである。生徒も父兄も口をつぐむしかなく、暴力教師はやりたい放題の日々を送っているという信じられない話であった。
なぜ、校長が問題教師を解雇しないのかといえば、労働組合が怖いからである。
現在、日教組の組織率は26.2%にまで低下している(2011年10月現在)が、それでも全国に約27万人もの組合員が存在している。また、日教組の関連団体も全国に数多くあり、すわ「教員解雇」となると、瞬時に支援組織が結成され、全国から支援団体が駆けつけて解雇撤回運動を展開する。教員が教員を守るパワーは圧倒的なのだ。(プレジデント)
暴力も体罰もNGという学校において、どうやって生徒を指導したら良いのだという嘆きを暴露する教師も多い。教師が体罰を加えられないことをいいことに、暴走する生徒もいる。
学校の先生受難の時代だと、溜息をつく教師は多い。不景気の世の中、安定しない家庭経済に悩む保護者の中には、お金に不自由しない先生に対して、ストレス発散のごとく噛みついてくるモンスターもいる。
塾教師歴30年、様々な角度から教育に対する不満や愚痴を聞いてきた。学校の先生に対しては、暴力云々のクレームよりは、授業中うるさい生徒を叱ることなく授業をする先生がいて、授業に集中できないというクレームが一番多い。
一方中学校や高校の現場の先生から聞こえてくる声は、学力差が激しく思うように授業が出来ないという悩みの声が聞こえてくる。
まだ悩んでいる先生はいいほうで、教えてもわかんねぇ~だろうから、授業を適当に流しましょうなんていう先生もいるようで、生徒から給料泥棒と罵られている先生もいる。残念なことだ。
上のような学校の校長は例外中の例外だろうけれど、保身だけを考えている校長がいることも事実だ。狭い世界で先生と呼ばれ続けて、世間の常識からかけ離れた感性を身につけてしまった人間ほど、厄介なものはない。なぜなら、自分が正しいととことん思っているわけで、裸の王様になってしまっている。困ったものだ。
暴力や体罰はあってはならない。学校でいじめはあってはならない。どう見てもどう考えても当たり前のこと。その当たり前のことが、学校では遵守できないでいる。
学校の先生が尊敬される人間であることが難しくなったからだと言う人がいる。世の中を見渡せばそれは残念ながら否定は出来ない。しかしそれ以上に問題なのは、人間の尊厳を、命を、本当に愛を持って育むことが出来ない大人が増えていることじゃないだろうか。
自分の子どもならやっていますよと言うかもしれない。他所の子どもはどうだろうか。仕事だから義務だから、お金を頂いているから、・・・・・云々。
人は人に生かされている存在だ。だったらやるべきことは見えてくる。そうじゃないだろうか。
季節は間違いなく夏から秋に向かい始めている。
我が家の田んぼも稲穂が頭を垂れ始めた。昼の蝉の声はだんだん遠退き、夜ともなると秋の虫がうるさいほどだ。
夏期講習会も明日を入れてあと3日で終わる。宿題に追われ四苦八苦している中学生や高校生も多いのではないだろうか。ラストスパートというところだろうが、心より健闘を祈る。
それにしても今年の夏は雨が多かった。めちゃくちゃ草が伸びるのが速かった。今年の夏は庭や田んぼのあぜの草刈りを何度やったことだろう。
お盆期間気持ちが悪いほど涼しかった。最高気温が22度ぐらいの天候に、我が家の猫もタオルをかぶって昼寝をしていた。
新学期が始まる。新学期からは5名の新入会者の予約が入っている。閑古鳥が鳴いていた僕の塾もようやく忙しくなってきた。がんばろう!
大人になるということはどういうことだろう。僕はいつも自問自答する。
たとえば、年をとっても変わらない自分をしょうがないなと思うのか、ほっとしているのか、正直自分でもわからない時がある。
人に教える仕事を30年以上もやって来れたのは、きっと教える相手に、何か大切な物を教えてもらいたかったからに違いない。
いくら本を読んでも、経験をしても、それはたかが知れている。自分が見ているこの宇宙は、本当に存在している世界なのか、自分が思っていることは、どれだけ他人と共有できるのか、僕はいつも不安だらけだ。
言葉も音楽も思想も文學も、決して一瞬たりともとどまってはくれない。過去も現在もそして未来もすべてが流転する。
過去世も來世も、ワープロの変換文字のように打ち込めればなんて楽なんだろうと思うことがある。現実が現実を追い求めているうちに、僕はなにか大切なものを忘却して来てしまった気がする。
忘却の不安は、時にやすらぎでもあるのだけれど、孤独癖のある僕は、ついつい自分の存在そのものをふと忘れ去っていることがある。
10歳の頃の自分も、20歳の頃の自分も、そして50も半ばになろうとする自分も、生きるスタンスにそれ程の違いはない。同じ自分なので変わりようが無いはずなのに、変わったかのような幻想を持ってしまう。
人間は進化しているというけれど、なんだか僕には退化してきているようにしか感じることが出来ない。電気部品を発明することが進化と言うならばそうなのかも知れないけれど、自然との調和や、宇宙との調和を考えれば、僕らは忘却のしっぱなしで、大切な何かからどんどん遠ざかってしまってきたように思う。
子どもの頃、大人になるということは自由になることだと思っていた。好きなものを食べ、好きな所へ出かけ、好きなことをやる、そんな自由が手に入るのだと思っていた。
そういった夢想が壊れていくのが大人だと知った時のショックは大きかった。大人になんかなるんじゃなかったと地団駄を踏んだ。でもそれが大人だと諦めれば、それはそれで、ずる賢く生きていればいいやと思った。
だから僕はこうして生きている。
教育というものは、一種のまやかしだと誰かが本で書いていたが、僕もまさにその通りだと思う。誰かの都合の良い存在物にするための洗脳であることに間違いはない。その誰かというのがクセモノだ。あえて国家や権力者とは言わないが、その時代を作っている雰囲気的な存在とでも言えばしっくり来るだろうか。
子どもたちを僕は子どもだと思うことはない。対等の存在だと思って鼻息を荒くして、時に打ちのめされ、時に競争心を煽られ、時に脱帽する。つまりは惨敗のしっぱなしだ。
そんな教師はいないだろうと思うかも知れないが、ここにいる。
人間の才能をはかる尺度はとても未熟だ。いい学校に入っていい気になっていると、あっという間に挫折の時代がやって来るし、仕事の能力が人間の能力だなんて思っていると、あっという間に足をすくわれる。
これも教育が悪いんだろうなと思うけれど、努力をする理由を子どもたちに与えるとするならば、たいていの大人は、学歴と仕事とお金を得ることに行き着くわけで、それ以外でこどもを鼓舞することは、かなりのペテン師かもしくは神に近い人格者じゃなければ出来ない。
僕はペテン師でも神でもないので、やっぱり子どもたちにやる気をださせることは難しいことで、いつもいつも苦労する。考えてみれば当たり前のことで、なにせ自分を鼓舞することができないでいるのだから、困ったものだ。
2日間の完全休が終わった。今日は塾は休みだけれど、中学生の卓球の指導が始まる。さて大人として頑張るか・・・。
岩手代表盛岡大附属が、優勝候補の東海大相模に4-3で逃げ勝った。盛岡大附属のピッチャー松本君は、下馬評の150キロ代の速球こそ見せなかったが、緩急織り交ぜた変化球で、強打の東海大相模の打線を封じ込めた。
8度目の夏、盛岡大附属の1勝に目頭が熱くなった。
ちなみに我が家内の実家は相模原市。野球に全く興味がない女房は、我関せずの態度で、バイトに行っている息子の迎えに行った。
盛岡大附属が勝って東北勢は例年にない活躍だ。雨の中の大変な試合だったが、27度という気温が、岩手の盛岡大附属には幸いだった気がする。
昨日今日と、一関も半袖姿では寒い気温だ。お盆にこんなに涼しいのも珍しい。涼しいけれど、熱くなったなった今日の盛岡大附属の1勝だった。
2007年に始めたこのブログも記事数3700を数え、7年が過ぎた。本日8月15日に総アクセス数が、1177777になった。偶然PCにスイッチを入れたら7のゾロ目にビックリ。
いつもいつの時でも偶然に数字の7が僕の前に現れる。7年前にこのブログを始めた時は、体調も精神もズダボロ状態の時だった。一種の更年期障害みたいなものだったと思うのだけれど、仕事に向かうエネルギーが枯渇していた。
そんな当時、文章を書くことが好きな僕に、女房がブログを勧めてきた。気分転換のつもりが、ハマってしまった(笑い)。
ブログを通じて本当に多くの方々と知り合えた。塾のことや教育のことは蚊帳の外で、我が家の貧乏話や、ジャズの話、震災後は原発や放射能の話に加えアラハバキ神なるものの話に耽溺し、僕のブログは非日常性を漂い、そして放浪しっぱなしだ。
ところで7の数字が連続したところでついでながら言うと、僕の誕生日も2月7日で7に関連している。1177777のアクセス数を記念して、2月7日生まれの方々をリストチェックしてみた。
お盆休みにこんなことをやっている僕も、かなり暇人だと思う・・・。ドンマイだ。
1478年2月7日 トマス=モア (Thomas More) 【思想家】 〔イギリス〕
長崎被爆体験者の代表が政治批判をしたことに、賛否両論があるようだが、この6分ちょっとの言葉の中に、迷走する政治への怒りというよりは、人間存続の切なる懇願を感じた。
来年は敗戦後70年の節目を迎える。戦争で失われた尊いあまりにも多くの命、その犠牲のもとに今の社会の繁栄があると言っても過言ではない。
僕らの親の世代が、戦争を知る最後の世代だ。現在の政治家のほとんどが戦争を知らない。国や民族のプライドなどどうでもいい。世界に戦争が絶えない理由を考えれば、その取るべき選択肢は見えてくるはずだ。
武器を作らない。武器を使わない。そして貧困と無秩序の国を見捨てない。当たり前のことが、当たり前のこととして消化されて行かないこの世界は、まだまだ発展途上の社会だ。謙虚に学ばなければならない。
昔から虻や蚊に刺されやすい。O型の血液の人は、蚊に刺されやすいと言われるけれども、今年は虻にも愛されている。困ったものだ。実はブログを書いている最中に今も足の指を刺されてしまった。かゆい!
刺されると言えば、蜂に刺されて亡くなる方が増えている。体質的に免疫がなくてショック死をする人がいるとのこと。気をつけてもらいたい。ちなみに僕は何度も刺されたけれど、なんとか元気に生きている。感謝である。
さて先日磐井川の土手に植樹された桜の木の話を書いた。毎日塾の2階から話しかけてきた桜の木だけが葉がいっぱいで、その他の木々は、葉が落ちてしまっているという記事だったが、これがかなり話題になってしまっている。
かねごん先生何か栄養剤でも散布したんじゃないですかと言われたが、そんなことはない。
実は桜の木だけではなく、我が家の自宅でも異変が起きた。
洗面所のそばの生け垣の上に、野ばらがあればいいなと思っていた。そうしたら野ばらが勝手に生えてきた(笑い)。毎朝顔を洗いながらおはようなどと声をかけてきたら、20センチほどのバラが、あれよあれよと言う間に大きくなり、上の写真のような大きさに成長した。後から後から新芽も出てきた。
ここには鬱蒼とした杉林があった。3年前線量が高かった故に全て伐採したのだけれど、その後の空き地にこのバラが芽を出したのである。
蚊や虻などの虫に愛されているかねごんだけれども、植物にもひょっとしたら愛されているのかも知れない。なんとか雪深い冬を乗り越えて、来年の春には可憐な花を付けて欲しいと願う自称プレアデス爺である。
先日大験セミナーを会場として、今年度第1回目の白ゆりテストを実施した。昨年の中3生は外部会場で受験をしたのだが、今年は取りあえず3名の中3生が当塾でテストを受けた。
昨今、白ゆりテストは難しいとの評価が多く、受験を渋る受験生も多いようだけれど、力試しと言うのか肝試し(笑い)というのか、己を知るというこは大切なわけで、お金がかかることではあるけれど、チャレンジをしてみてはいかがだろうか。
夏期学習会もいよいよ今日から後半戦に突入だ。例年ならばお盆休みに突入する僕の塾なのだが、今年は基本的にお盆休みは2日間のみ、勉強会に参加する塾生がいる限り、とことん付き合うつもりだ。
夏期学習会の前半は、猛暑が続きグダグダ状態だったが、中盤戦はエアコンがいらないくらいの涼しい日が続いている。塾生達も、だいぶ勉強がはかどっているようだ。
ところで最近、塾生達が僕に歌を歌えと脅迫してくる。名曲(迷曲)『かぶとむし』をやって欲しいと言われ、ポリシーがないお調子者の僕は、ついつい学習会だというのにギターを片手にリクエストに応えてしまう。教室はライブ会場に変わり、寝不足でこっくりこっくりしていた生徒も、キラリと目をぱちくりして復活する。
僕の『かぶとむし』もおかげさまで、9600アクセスを超えた。もう少しで1万アクセスに届きそうだ。ブログの師匠のとよ爺先生が忙しいなかユーチューブにアップしてくれたものだ。とよ爺先生の塾は神奈川にとどまらず、ベトナムにまで教室を展開している。爪の垢でも煎じて飲まなければならないかねごんである。
ジョンビリングさんのライヤーコンサートのごあんない
ライヤーってなに?
昔むかしのギリシャ時代のリラという楽器を元に、
1920年代のスイスの治療教育の学校で創られた楽器で、
シュタイナー教育や音楽療法の現場で使われています。
繊細な音色に耳を傾けると、自分の内側が温かな静けさに包まれるようです。
特別なひとときを過ごしてみませんか。
とき 9月2日(火)午後5:00~5:50
ところ 風と虹(かねごん宅)
岩手県一関市花泉町金沢字東要害30
参加料 大人1000円 子ども(年長以上)500円
事前にお電話、FAX、またはメールにてお名前、電話番号、人数 をお知らせください。
電話080-1827-2514・FAX0191-82-1664・メールkazetoniji@flute.ocn.ne.jp
ジョン・ビリングさんのプロフィール
1952年イングランド生まれ。
ライアー演奏家、作曲家、編曲家、ケルティックライアーオーケストラ指導者、音楽教師。
1967年よりギターを弾き始め、1977年にライアーと出会う。
シュタイナーの思想に基づく音楽療法を学び、
イギリス、オーストラリアのシュタイナー学校で音楽を教える。
1995年以降ライアー演奏家として活動。
またキャンプヒルなどの治療教育施設での音楽も積極的に行い、自分自身の作曲や編曲、演奏のCDの製作もしている。
2011年被災地での演奏などを経て、震災後に寄せられた曲集「Offerings to the Land of the Rising Sun]の製作に携わる。
John Billing HP http://www.johnlyre.co.uk/
Johnの演奏を試聴する(myspace) http://www.myspace.com/johnlyre
政府が昨年の人口統計を発表しましたが、このデータをよく見てみると非常に興味深いことが判明しました。まず、震災以降に死亡者数が、第二次大戦に匹敵するほど急増している点です。厚生労働省によると、平成23年から平成25年の累計死亡者数は360万人以上に急増。
しかも、死者の伸び率は第二次世界大戦時の死亡率の伸びを上回っています。これは驚異的なことで、今の日本は太平洋戦争時の時と同じくらいの勢いで人が亡くなっているということになるのです。
未だに「放射能の影響ではない」と言い切っている方を見かけますが、死亡原因の項目を見てみると、福島原発事故の後に悪性新生物(癌)や心疾患が増加しているのが分かります。福島では「100万人に一人」と言われていた小児甲状腺がんが数十人規模で発見されており、岩手などの東北各県の病院でも心不全などの突然死が数倍に激増中です。
もはや、「ストレスが原因」と言えるようなレベルではなく、当初の予想よりも放射能の影響が早い段階で現れている事をこの統計は示しています。
実際にチェルノブイリ事故を経験したアニーガンダーセン氏やバンダジェフスキー氏のような専門家らは、早い段階から「福島原発事故はチェルノブイリを遥かに超えるかもしれない」と警告を発していました。そろそろ、放射能の影響が目に見える形で現れてくる時期で、色々なことを本気で覚悟しておく必要があります。
何せ、今は太平洋戦争に匹敵するような非常事態です。日本の人口は放射能と少子高齢化のダブルパンチで、5000万人程度にまで急減少するという予測もあり、今後も非常に大変な状況が続くことになるでしょう。(ブログからの引用)
昨日は我が家が檀家になっている曹洞宗のお寺で、盂蘭盆会の法要が行われた。祖母の13回忌の法要をして頂いてきた。
初盆の諸霊の供養の名前が読み上げられたのだが、ここ1年間に亡くなられた方々の多さに驚いた。失礼な話かもしれないが、ここ2.3年お寺の本堂を訪れるたびに、立派な伽藍や諸仏が増えている。間違いなく儲かっている。
震災前は、初盆の供養がいくら多くても7名ほどだった。それでもお坊さんは忙しくて大変だったようだが、今やこの地区で亡くなる方は毎月2名はいらっしゃる。亡くなる数は倍になっている。
そのことに誰も触れようとはしない。たまたま老人が多い地区だから・・・と言うことなのだろうけれども、お年寄りだけの家庭の食卓や、老人ホーム等で出される食材は、どんなものなのだろうと考えてしまう。
法要の読経を聞きながら、震災後亡くなられた多くの御霊のやすらかなることを僕は祈っていた。
奨学金を返さないとして、訴えられる人が急増している。
貸した側の日本学生支援機構(旧日本育英会)が2012年度に起こした訴訟は6193件で、8年前の100倍を超えた。
借り手の貧困に加え、機構側の回収の強化が背景にある。国も、返済制度の改善に乗り出した。
「どうしていいかわからず、怖かった」。札幌市の20代女性は2月、機構から訴えられた。大 学時代に借りた奨学金約240万円のうち、未返済の約170万円を求められた。
2007年の卒業後に就職し、返済を始めた。
出産のために休職したが、子どもを預ける場所が見つからずに復職を断念。
さらに夫の勤める会社が倒産した。11年9月、困窮を理由に返済猶予を機構に申請。
認められたが、その後、毎年必要な猶予の更新手続きをしなかったとして、翌年10月から延滞扱いにされていた。
「100万円か150万円を一括で払わないと、訴訟です」
「あなたの話は聞けません。今のままなら(訴訟に)負けますよ」
女性は提訴される直前、機構側に、そう言われた。
だが、弁護士に相談して機構に返済猶予を改めて申請すると
、困窮状態にあると認められて提訴はあっさり取り下げられ、延滞金も不要となった。
女性は「自分だけでは動けなかった。支払いが猶予されなかったら、生活がどうなっていたか……」と振り返る。
猶予の申請時、更新手続きの説明を受けたかははっきり覚えていないが、
「訴訟前に改めて教えてくれれば、弁護士に相談せずにすんだのに」と思う。 (朝日新聞)
本来、就学困難な若者を救うための奨学金が、若者たちを窮地に追いやり、自殺の要因にまでなっている。このことに緊急な支援をしない国は、怠慢以外の何ものでもない。
奨学金が、単なる教育ローンになってから久しい。福利厚生がしっかりしていて、夏冬に月給の2倍ほどのボーナスが出る会社に就職して、はじめて返済が可能になる金額を、多くの学生が大学進学のために借りている。
大学を卒業しても2割が進路未確定のまま世の中に出てしまう昨今、返済できなければ奨学金の利息は容赦なく加算され、返済金額は膨れていく。返済不要の特別奨学金を大学からもらえるのはほんの一握り、この経済格差の日本社会は貧乏人を容赦なく切り捨てていく。
じゃあ頑張って地元の国立大に入ればいいと、物知り顔の人間は言うけれど、その勉強の環境でさえも、家庭に経済的な余裕がなければ歯車は咬み合わない。
高校生や高校生の親御さんから、全教科を今の月謝で教えてもらえないかと懇願される。中学生は月謝5000円で全ての教科を教えているけれど、高校生の理数科目は僕には無理である。かと言って講師を雇えば、今の月謝の金額では到底不可能だ。
中学校の全教科を教えられるのだから、高校も大丈夫でしょうと言われるのだけれど、大学受験をなめてはいけない。よその塾に行って4倍もの月謝を払ったのに結局大学はダメだったという話を聞くと、残念でならない。そもそも受験科目を全て塾で教えてもらおうという精神で、大学に行ったとしても、厳し言い方をするけれども、ものにはならないと思う。
僕は部活と音楽に明け暮れる馬鹿中学生だったがゆえに、県立高校に入ることが出来ず、私学に通った。何を血迷ったのか、大学に入りたいと思い、高2から自学で受験勉強を始めたのだが、大学受験の英語どころか、中学1年生の英語もままならない馬鹿高校生であった僕は、本当に大変な思いだった。
よく「高校時代は楽しかったです!」なんていう若者がいるが、どついてやろうかと思う(笑い)。貧乏を絵に描いたような我が家に、僕を私学に通わせる余裕もなく、僕は隠れてやったバイトで、授業料を払った。受験勉強をするために、悪友との快楽的交友を断ち切り、孤独の暗闇の中でのたうち回った。
高校も大学も私立だったと言うと、「家が裕福だったんですね」なんて言われることがあるが、思わず殺意がよぎることがある。もちろん実行には移さないけれど(爆笑)。
僕にとって奨学金が命綱だった。奨学金とバイト代で大学の授業料をまかなえたことに、ホッとしている。生涯返還に於いて完全無利息のお金は本当に助かった。
親も本人も大変な思いをして大学の費用を工面しているこの国の、国立と私学の垣根は大きすぎる。どれだけの優秀な人材が、お金の都合で大学進学を諦めていることか。
ゼネコン等の政府お抱え企業に回す巨額な建設費の1割のお金で、救われる学生がどれほどいることか。もうハード面はいい。人材の育成にお金をかけないとこの国は危うくなって行く。大学進学の金銭支援が本当に急務だ。一生懸命勉強している子どもたちに夢と希望を諦めさせてはいけない。
突然ですが、村上春樹の小説を読んで、僕も小説を書きたいと思った人は多いだろうと思う。しかし浅田次郎の小説を読んで、小説を書きたいと思う人間は少ないはずだ。
同じように、吉田拓郎の歌を聞いて、僕もシンガーソングライターになりたいと思った人は多いだろう。しかし矢沢永吉を聞いて、シンガーソングライターになりたいと思った人は少ないはずだ。
村上春樹や吉田拓郎の世界は、素人が真似しやすいトーンが意図的に散りばめられている。これは作り手の意図というより、彼らの持つある種の才能だ。親近感を持たせて読み手や聴衆を近づける麻薬的とも言える、模倣性を受け手側に抱かせる力を、村上や拓郎の作品は持っている。
一方浅田次郎の作品は、読んで感動するが、書きたいとは思わない。次元がぶっ飛んでいる。天才という領域を超えて、異次元の世界に浅田の思考は突入する。騙されたと思って彼の作品をアトランダムに3冊ほど読んでみるといい。ジェラシーを超えて、虚無になる。それほど作品の人格性が無限だ。
2年前紅白歌合戦にでた矢沢をみた高校生の息子が、感動していた。いつの時代でも矢沢の歌は懐メロに聞こえない。いつも時代を背負って彼は歌っている。凄いなと思う。
全ての作品が浅田次郎のような作品だと、作家が生まれない。全ての歌手が矢沢のようならば、やはり宴会で歌う人間が出てこない。
天才には2通りあると僕は思っている。庶民のふところに、わざわざ降りてきてくれるタイプ。もう一つは、切り立つ峰を1人歩いて行くタイプ。
どちらも魅力的であるけれど、皆さんはどっちの天才を踏襲したがるタイプでしょうか。
アメリカは8日、イラク北部のイスラム過激派に対し、あわせて3回の空爆を行いました。
空爆が行われたのはイラク北部の中心都市・アルビル近郊で、アメリカ国防総省によりますと、最初の空爆は現地時間8日午後、イラク北部で攻勢を強めるイスラム過激派「イスラム国家」の砲撃拠点に対して行われ、続いて午後7時頃、別の砲撃拠点に、さらにその1時間後には7台の車両に対し空爆を実施したということです。
これに先立ちオバマ大統領は7日、アルビルで展開しているアメリカの軍事顧問団らを守るため限定的な空爆を許可すると発表していました。
ホワイトハウスの高官によりますと、イラク内外のイスラム教スンニ派勢力から支援を受けている「イスラム国家」は、様々な兵器を駆使してアルビルに迫っているということで、今後も必要があれば空爆を行う方針です。
アメリカのイラクへの本格的な軍事介入は、2011年末の駐留アメリカ軍撤退以降、初めてのことです。(09日05:35)TBSニュース
イスラエルのガザ地区への攻撃がまた再開され、今度はアメリカがイラクへの空爆を決行した。
アフリカではエボラ熱が猛威をふるい、医療関係者の多くが犠牲になっている。ロシアはEU諸国の経済制裁に対して、農産物の輸入禁止措置を取った。
西日本は、激しい雨が止むことがなく、あちこちで大変な水害が起こっている。そして中国やインドの空気汚染は、もはや人間が住める限界値を超えてきた。
現在進行中の悲惨な出来事をちょっと書き綴っただけでも、朝からため息が出てくる。この現象のたどり着く先に、第3次世界大戦が起こらないことを神に祈る気持ちだ。
うん、待てよ、宗教や神様のテリトリーの問題が、戦争の原因となろうとしているのだから神様に祈ってもだめか。
我々人間が、襟を正して阻止しなければならない。
塾前の磐井川の土手の改修工事が終り、伐採された桜並木を復活させようと、今年の早春に土手に桜が植樹された。
塾の2階の僕の机から見える1本の桜の木に花子という名前を付けて、いつも教室から、早く大きくなって居心地のよい木陰をまた作ってくれと応援していた。
それがその桜の木だ。
ところがである。先日とんでもないことに気づいたのである。僕が声をかけてきたこの桜以外の木々の葉っぱが、ことごとく散っていたのである。
CGでもなければ、僕がカモフラージュした光景でもない。写真が縦になってしまったが、教室前の桜1本を除き、ほぼ全部裸になってしまっていた。
そんなことは無いだろうと思われる市民の皆さん、一関一高前の磐井川の土手の桜を見てみてください。不思議な光景が飛び込んで来るはずです。
塾生いわく。「先生なにやったの」と質問されたが、僕は何もやっていない。毎日花子と名づけた桜の木を眺めていたに過ぎない。
自称プレアデス星人とふざけていた僕だが、塾生の顔がちょっとマジになっていた。どうしよう・・・・
2013年度に全国で不登校(年間30日以上欠席)だった小中学生は約12万人で、前年度より約7000人増えたことが、文部科学省が7日公表した「学校基本調査(速報値)」で分かった。12年度まで5年連続で減少していたが6年ぶりに増加に転じ、10年度の水準に戻った。
学校基本調査は、全国の学校の生徒数など実態を把握するため、文科省が毎年5月に幼稚園から大学まで国公私立の全学校を対象に実施している。
不登校の小学生は2万4175人で前年度より2932人増えた。全児童に占める割合(不登校比率)も0.36%と、0.05ポイント増で過去最高水準。276人に1人の割合だ。中学生は9万5181人で前年度比3932人増。不登校比率は2.69%で0.12ポイント増だった。37人に1人の割合だ。小中学生を合わせると11万9617人(不登校比率1.17%、中等教育学校含む)で、前年度より6928人増加した。(毎日新聞)
この不登校の割合は、各クラスに1名の生徒が学校に登校していないことになる。学校と家庭の連携が希薄になっているという声を多く聞くけれど、学校側が家庭のトラブルに関与する領域に限界があることも事実で、精神医療の専門家のケアーが必要なケースが増えている。
家庭に於けるトラブルと言ってもその構造は複雑だ。両親の不和・嫁姑の問題・経済問題・家庭内暴力それから失恋やいじめ、ペットロスまで、様々な要因が子どもたちの精神を追い込んでいく。
いじめや友達とのトラブルが、不登校のきっかけになるケースが多い。普通の生徒が普通に生活することが難しい時代になった。
僕は学校に行かないという選択はそれほど深刻な問題じゃないと思う。問題は不登校がそのまま社会からの引きこもりになって行くことだ。
学校に行かなくても、基礎学力と社会通念の学習は絶対必要だ。そのことを忘れないで欲しい。
毎年一関川崎の花火大会の日が女房の誕生日だ。
昨年いよいよ半世紀の年月を生きて、すばらしい年代に突入した(笑い)。本人はまだまだ30くらいの気持ちのようだが、間違いなく年輪は数を重ねていく。
先週東和の白岩神社の前で写したスナップだ。磐座のエネルギーを浴びてハイテンションになっていた感じがするが、誰も彼女の暴走を止められない(爆笑)。
僕の女房は10年前からシュタイナー教育を実践し、農家である嫁ぎ先の座敷を変革し、幼児親子教室のシュタイナー教室『風と虹』を開講している。
これが一関市花泉町金沢にある僕の自宅だが、シュタイナー敎育を実践している教室でもある。写真でも分かるように、容赦なくど田舎である。こんな山の中にやって来る訪問者はキツネかたぬきだけかと思っていたが、日本国内どころか世界で活躍するシュタイナー教育を実践する先生方が、東京や九州から、こんな山奥に、震災後何度も足を運んで頂いている。
感謝を通り越して、声も出ないほど感動し恐縮しっぱなしだ。
我が女房の教育に対する果てしなき挑戦は、まだまだ続きそうだ・・・・・。
夏休みの宿題がすさまじい。
市内の中学校から出される宿題の量は半端じゃない。B4サイズのプリントページ数に加算すると、ゆうに200ページを超える宿題が子どもたちに出されている。
塾の宿題を出すすき間は無い。中学校や高校の印刷機は、夏休みが近づくとフル回転だ。
悔しいけれど、その宿題の質もなかなかいい。学校の宿題をしっかりこなせば、塾は必要ないかも、・・・と思うのだけれど、それが重々難しい。
質はいいのだけれど、基本ができていない受験生には、解答写しマシーンの手首訓練プリントになってしまっている。
部活動と宿題プリントで終わっていく夏休み。そこに塾などが介入すれば、子どもたちの自由時間はシャットアウト。ごめんねと言いたいところだけれど、この弱肉強食の世界を生きぬいて行く子どもたちにとって、虫取りカゴを担いで野山を駆け巡っている暇はない。
僕らの頃はどうかと言うと、薄っぺらな夏休み宿題ドリルが一冊だけ。それと読書感想文の宿題が取ってつけたように付随した。それでも、勉強嫌いの僕などは、アップアップ。
僕が現在の中学生ならば、間違いなく不登校になっていただろうと思う。
最近『モモ』を再読した。ミヒャル・エンデ作のこの著作は、童話というにはあまりにも多重的な構造を持つミステリアスな作品で、我々大人の精神世界を揺さぶる物語だ。
『モモ』が日本で出版されたのは1976年のことだ。まさに時代は高度経済成長期のまっただ中、カラーテレビが普及し、多くの家庭が自家用車を所有し始め、日本は物質的な豊かさに突入して行く。
『モモ』のストーリーそのままに、大人や子どもたちが時間を奪われ、生きることに急かされ始めた時代だ。
先日突然『モモ』が読みたくなった。20年ぶりぐらいに読んだだろうか。現代の子どもたちは『モモ』の世界より何倍も時間を奪われてしまった。巨大ゲーム産業とケイタイ産業に。
時間泥棒は今や姿を隠すことなく、堂々と世の中を驀進中だ。
子どもたちはおしめが取れないうちから保育所に預けられ、母親たちは、子育てという時間を、企業や現代社会の似非哲学に搾取され、タイムカードを押すことで、母性本能を封印され、男女平等の旗のもと、時間の流れに押し流されいる。
夏休み。ちょっと『モモ』を読んでみませんか。
夏期学習会も前半の1週間が過ぎた。今回の夏期講習会は、夏期勉強会と銘打って、学校の課題学習会が中心の勉強会だ。
夏期講習会の費用も日程も、自由に選択出来る今回の講習会は、結構好評で、利益はさておいて、受講の人数だけはここ10年間で一番多い。ちなみにこれからの受講も可能である。暑くてグダグダしている受験生には、僕の塾の夏期学習会はなかなかのオススメかと思う。
8月に入ってめちゃくちゃ暑い。一関は今日も35度をゆうに超えた。塾のエアコンは1階も2階もマックスだ。
エアコンも扇風機もない僕の自宅の寝室は、昨夜は熱帯夜。あまりの寝苦しさに睡眠時間は3時間もキープ出来なかった。故に今日は、ちょっと辛かった。
明日から夏期学習会も中盤戦。暑さに負けずファイトだ。
3・11の大地震はアメリカによる人工地震であるという著書や、人工地震であることの根拠なるものがウエーブ上で広く拡散している。
これらの論点は、アポロが月面に到着した映像は、スタジオで作られた架空の映像であるとか、9.11の同時多発テロはアメリカの自演自作である等の都市伝説的な要素を含んではいるが、簡単に見過ごしていい問題ではないと思う。
某総理大臣を含め、日本の政治家が、震災後非常にアメリカ寄りというのか、アメリカに恐喝されているのではないかと思うくらい、今までの路線を急激に変えつつあることなどなど考えると、確かにきな臭い感じではある。
今日はちょっと僕のスピリチャル的と言うのか、超自然的感覚と言うのか、そんな見解を述べてみたい。
まずあの大震災のあった1ヶ月前から、僕は原因不明の体調不良に陥った。頭痛と胸の痛みで歩けないほどだったけれど、病院での精密検査の結果は、持病の痛風以外なにも見出されなかった。その体調不良も震災が生じると同時に完治した。
その後何度か頭痛や胸の痛みを経験したわけだけれども、その痛みがある程度の大きな地震の前にやって来ることがわかった。
しかしである。僕は過去において東日本大地震の前に、地震がやってくるからといって体調が崩れるなんてことは、記憶する限りまったくなかった。
また震災後、僕はアラハバキ神なるものに、完全に呼ばれている。誘導されていると言っても過言ではない。東日本大震災が、アメリカが起こした人工地震であるか、そうじゃないかは僕には確定出来ないが、東京電力が関東以北の神々が住む神聖な場所を土足で汚すような暴挙に出たことが、僕は今回の震災を防御できないでしまった要因の一つじゃないかと考えている。
象徴的なこの光景を見て欲しい。
僕の住む近所の風景だ。山神が祀ってある里山に巨大な鉄塔が建っている。この鉄塔は建てる場所によっては1塔1億円を超えると言う。この鉄塔は建設中の青森の原子力発電所の電気を、関東に運ぶための鉄塔だ。何万本建てたのだろうか。
数万ボルトの電流を流すための電線が、北上高地の山々を横断する。静謐な山奥の風景が台無しにされた。そればかりじゃない。その鉄塔が建てられた山々では、いったいいくつの磐座や山神の聖地が蹂躙されてだろうか。
縄文の時代から崇められてきた聖地が、重機やキャタベラに踏みにじられ、文明の利便性のために、多くのレイラインが崩壊した。
僕はアラハバキの神々に、人間の犯した愚行に早く気づけと、警告を発してもらった気がする。今回の地震は、アメリカが起こした地震でもなく、神様の天罰でもなく、文明化した社会の中で、祖先が伝えてきた大切なものを軽視し失ってきた、この文明社会の責任だと思っている。
アメリカによる人工地震を主張する方々が多くの証拠を突きつけているが、あれだけの証拠が事実ならば、なぜ誰も阻止できなかったのだろうか。
北上高地や阿武隈高地の霊峰やその周辺を、蹂躙している鉄塔を是非この夏、目にして欲しい。文明の奢りがわかるはずだ。
この無謀な計画を実施した東京電力ばかりではなく、鉄塔の土地を提供した東北・関東の数万人の地権者や、公共地を提供したお役人や、その組織すべてに責任がある。もちろんそれを許してしまった僕らもだ。
これらの鉄塔がほぼ完成し電線が張られたタイミングであの大地震がやって来て、福島第一原子力発電所が崩壊した。偶然だろうか。
津波によってあまりにも多くの方々が犠牲なってしまった。哀しみは癒えない。僕が講師に行っている修紅短期大学には、津波で被災した三陸の学生が多く在籍している。教え子の中には、気仙沼で自宅を流され、毎日仮設住宅から短大に通って来ている学生もいる。
講義の中で、被災に関して触れることがためらわれる瞬間が、僕の中ではまだまだある。海岸線は例年ならば、海水浴客でいっぱいの季節だ。しかし、その気分に慣れないのは当然で、夏の海は閑散としている。
僕らはあまりにも常識というものに囚われてしまい、逆に目に見えない存在の依存者になってしまった。不登校になれば、心療内科の薬を頼りにし、不幸が続けば宗教関係の門をたたく。
僕は20代の頃、家庭教師の仕事をメインにしていたことがある。当時不登校やひきこもりという言葉がそれほどマスコミに登場することがない時代だったが、それでも学校に行かない生徒の相談を受け、家庭教師に出向くことが多かった。
そういう家におじゃますると、家が立派でも、先祖代々の庭のお宮が、草ぼうぼうで隠れそうになっていたり、座敷の仏壇がほこりまみれだったりということが多かった。
僕らが存続してきた礎は、お金や権力なんかじゃない。食料をいただいてきた大地と水と、そして人間の絆だ。信頼と言ってもいいだろう。その供給源はどこだったのか考えてみるといい。おのずと答えは見つかるはずだ。
7月31日は早池峰神社の例祭だった。早池峰山には合計15回ほど登っているが、早池峰神社の例祭に参加したのは、今回が4回目となる。
早池峰に惹かれたの30代なかばの頃、この神社に来ると、懐かしさと言うのか、遠い古代人の祈りの真摯さみたいなものをひしひしと感じるかねごんである。
早池峰の神様は瀬織津姫、化身である十一面観音像が早池峰山の頂上に祀られている。
祝詞の奏上の後に、茅の輪くぐりのご神事が執り行われ、多くの参拝客が祓い清めの神事に参加した。その後にお神酒を頂くのだが、女房はこの日2度もお神酒を頂き、ほろ酔い気分になっていた(笑い)。
ご神事が終り夕方6時から、いよいよ早池峰神楽は始まった。荘厳さといい、躍動感といい、いつ見ても早池峰神楽はすばらしい。今回はかぶりつきで神楽を堪能できたのだが、舞手の息遣いやほとばしる汗が、神楽舞台の演出効果となり臨場感一杯の神楽を楽しむことが出来た。
毎年7月31日に行われる早池峰神社例祭は、夏期講習期間中ということも合って、スケジュールの都合上、毎年参加することは出来ないが、今年は多くの磐座がある神社やそして遠野のすばらしい名勝を訪れることができ、すばらしい1日を体験できた。
塾生の合格祈願も滞りなく出来、迷うことなく夏期講習の中盤戦に突入出来そうだ。神々に感謝である。
遠野市に行ったのは10年ぶりぐらいだ。アラハバキ神や磐座に興味を持ち始めてみると、遠野はまさに磐座の宝庫だ。
南部曲り家の千葉邸の庭園の巨岩に魅了され放しだった僕と家内は、すぐ近くの続き石を見るべく、山登りを決行した。
僕らが車で登り口に到着すると同時に、30歳前後の青年が貸し自転車でやって来た。神奈川から休暇で遠野にやって来たのだと言う。僕の女房も神奈川の出身だということで、話が弾み、360メートルほどの山道を、磐座を目指して一緒に登って行った。
汗を吹きながら遠野の里を自転車で走る若者を見て、僕は懐かしい歌を思い出していた。
磐座との出逢いは衝撃的だった。写真や動画で何度か見てきた巨岩だったけれど、目の当たりにした僕は目眩を覚えるほどの衝撃だった。
この写真からは大きさが分かりづらいと思うので、女房を撮った写真を一枚。
彼女いわく、石の波動に癒やされたとのこと。光の加減だろうと思うのだけれど、体全体が光に包まれた感じの写真がとれている。
遠野の山里に感じる、ある種のエネルギーは、柳田国男の言葉を借りれば、異界である山神の住処と、人間社会の境界線の脆さを修復しようとする力であり、自然とリンクする宇宙の響きのようなものかも知れない。 続く
昨日は岩手水沢・東和・遠野・早池峰の神社を訪れ、磐座やアラハバキ神に塾生の繁栄と合格祈願を行なってきた。
奥州市水沢の駒形神社に向かう途中、いつものように僕の車の直前を走っていたのは、プレートナンバー7777のトラック。もちろん駒形神社前のいつもの交差点で信号待ちしていた車は77のプレート番号の車だった。いつもの奇跡の始まりだ。
駒形神社を参拝したのち訪れた神社は東和町の白岩神社。
そして次に訪れたのは同じ東和町に鎮座する丹内神社。猛烈なパワーを解き放つアラハバキ神の磐座が鎮座していた。
この磐座からも、青い神々しい光が解き放たれていた。丹内神社の境内には、駒形神社の末社も祀られており、深い縁を感じた。
その後遠野市に入った家内と僕は、南部曲り家の千葉家を訪れた。皇太子もかつて訪れたことがあるこの豪農屋敷には、立派な稲荷神社が祀られているのだけれどすばらしい磐座が鎮座していた。
肉眼では見えなかったけれど、写真で撮ってみると、磐座からものすごい青い光が放射されていた。昨日の磐座から放出されていた青の光は、まるでプレアデス星団の青の光のようだった。
この後続石を見るために、山登りをしたのだが、その様子は後日。
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