人間は「死」を前提とした存在物
結び目がほどけなくてイライラすることがあるように、人生の中では感情のもつれやちょっとしたボタンの掛け違いが歯車を狂わせ、思わぬ方向に足を引っ張られることがある。
生きていく中で必要なことは、実に多い。規則を守ることはもちろんのこと、自分の立場、相手の立場、そういった様々なバランスをとりながら、僕らは日常というものを過ごして行く。
社会性というものは、教育されて育っていくものだが、あまりにも安易な近代文明の道具は、画一的な思考、価値観を子どもたちにねじ込ませ、生きていく上で一番大切な感情である、愛することや、人を慈しみ心さえも、マニュアル化してしまった。
服装の流行のように、いとも簡単に過去の思想を陳腐なものとして退け、多くの群衆がはやりの思考を身にまとい、そしてその思考は勘違いのかたまりを作り出す。
100メートルを12秒で走れる人間が、18秒で走れる人間より優れていると思ってしまう勘違い。
微積の問題を解ける人間が、微積を解けない人間より優秀だと判断する勘違い。
年収が600万円の人間が、年収300万円の人間より偉いと思う勘違い。
そういった勘違いが、地域を超え、国家を超え、宗教を超えてしまうと、それが敵意になり、憎しみを生み、人間はいとも簡単に殺戮しあう。
絡んだ糸を解きほぐそうとはせず、切断し切り捨てようとする。イデオロギーや思想などというものは、権力者によって簡単に操作され、自分たちに訪れる不幸はすべて他人のせい、他国のせい、他宗教のせいと見なされ、不平等感は戦争という手段で穴埋めさせようとする。人間はさらなる絶望の淵に追いやられる。まったく愚かだ。
人間は「死」を前提とした存在物だということに於いては、まったく平等な存在だ。生きる目的や、価値観の多様性などは、死を目前とし受け入れた時に、私という存在が希薄になり、肉体を持った生活は消滅する。
現代は鬱の時代だと言われる。アルコールや薬物や錯綜した性に溺れていく人間があまりにも多い。不安によって身体と心身を蝕まれて行く。
僕らは積極的に死を想うべきだ。何を悔やんでも、何を悩んでも、一瞬の喜びを見出しても、僕らは必ず死んで行く。そういう意味では、我々は完璧に平等な存在だ。だから安心して、今日も、明日も、生きていくべきだ。
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お久しぶりです。
全く同感です。
死を前提に考えると不安になること
快楽に溺れること、全て一時的に感じます。
50を過ぎて、介護職を始め改めて感じます。
利用者の皆さんの姿は明日の自分なのだと。
だから毎日を精一杯生きようと思えます。
かねごん先生もお体に気をつけて!
(かねごん)
tacco様コメントを頂きありがとうございます。
ご賛同いただき嬉しいです。
死は多くの方が忌み嫌いますが、死を考えることで、逆に生きる力に僕はなると思うんですね。
投稿: tacco | 2014年7月 9日 (水) 20時27分