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2014年6月30日 (月)

自分たちの存在をカモフラージュするのはやめた方がいい

白石一文氏はほぼ僕と同年代の作家である。長い引用掲載になるけれども、2009年1月に講談社から発行された、白石一文著『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』下巻のP43~P51の文章を抜粋して掲載させて頂く。

(引用掲載文)

なぜ神の力はいつだって金銭の力に勝つことができないのだろうか?

僕たちが必死に見出さなければならないのはその理由であって、ただ個人的に神と合一すればそれですべてが解決するなどというのは安易な幻想でしかないと僕は思う。

神というものは人間存在の意味や目的を教え諭すだけのものであるならば、僕たちにとって神はさして重要ではない。なぜなら、自分がなぜ生まれたのか?自分の人生が一体何を目的としているのか?、といった疑問は、僕たちの人生にとって必ずしも必要不可欠ではないからだ。もっとはっきり言えば、一過性の欲望や刹那的快楽が、誰でも持ち合わせているであろう神への尊敬や霊的自覚のい対して常に勝利をおさめるは、人間が人間存在の本当の目的を忘れているからでも、真実の自己の姿を見失っているからでもなく、そもそも問題意識自体が人間の心に根付くことが困難だからなのだ。

たとえばエドガー・ミッチェルの言葉をいま一度反芻してみよう。

彼は、「神とは宇宙知性といってもよい。それは一つの大いなる思惟である。その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。人間の意識はその思惟の一つのスペクトラムにすぎない」と明言している。ミッチェルは、宇宙空間でそのことをまさに「神の顔にこの手でふれたという感じ」で把握できたがゆえに自分は心理を得たと思い込んでいるのだ。

だが僕にすればなぜその程度のことで心理を掴んだと断言するのかがよく分からない。自身が永遠の生命をもつ「霊的存在」だと覚り、神の一部であると実感できたとして、いったいそれが何だというのだろう?

省略

僕たちは何でもかんでも全能の神に責任を押し付けてしまうことで、自分自身の怠慢や臆病、無知や偏見、憎悪や嫉妬、残酷さなどに頬っ被りを決め込むのがものすごく得意なのだ。この世がこれほど支離滅裂な状態で推移しているのも、それは創造主の計り難い計画の一環であるーとマジで思ったりしている。

全知全能であるはずの神の力が、この世界ではどうしてこうも無力なのか?神の力が金銭の力にどうしても勝てないのはなぜなのか?という問の答えは、実は至極簡単だ。

神とはそういうものとして規定されているのである。

神の存在というのは、僕たち人間が金や権力の追求、戦争や暴力の行使、人種差別や環境破壊、資源の浪費、富の偏見の容認、奢侈贅沢、人間以外の動物への虐待、絶滅などを好き放題にやらかすために、責任を回避する手段として利用する一種の便法だ。つまるところ「世界をより善きものに変えるだって?全能の神ですらできないことが、こんな俺たちにできるわけがないじゃないか」という言い訳が必要なのである。

神は僕たち人間が繰り返す過ちを適切に解決などしてくれない。そのことを僕たちは心から知っている。知っていながら、いつまで経っても「ああ、神様」と神頼みに走るのは、自らが直面する重大な問題に対して永久に目を背けていたからに他ならない。

エドガー・ミッチェル流に言えば、神が責任を持つのは僕たちの中にある「普遍的霊的存在」に対してだけであり、肉体と共に滅びる「自意識をもったエゴ」についてはまったく無頓着なのだ。僕たちが手前勝手な欲望に基づいてしでかすどのよなな行為に対しても、神が興味を示すことはないだろう。

僕たちがこの手で作り出した世界の不条理は、神が解決するのではなく、僕たち自身の力が解決するしかない。

この世界の悲惨さは何一つ神の責任ではないのだ。

(掲載引用終了)

立花隆氏の『宇宙からの帰還』を読んだ小説の主人公川端が、1996年アポロ11号に搭乗したエドガー・ミッチェル氏に対して行なった立花氏のインタビューに対して感じた神的存在の理由に、数ページに渡って独白する場面なのだが、著者である白石一文氏の論点であると捉えても差し支えないだろうと思う。

僕は引用した上の文章に対して、強烈なシンパシーを覚えた。個人の覚りはその個人にとっては気持ちがいいものであっても、それが直接文明を生き抜く人間に何の関わりがあるのだろうかというのが、実は僕が常日頃思っていることだ。

酒を飲んで気持ちが高揚している人間はとても饒舌になる。神の存在理由に何らかの覚醒を得た人間も同様だ。

たとえば覚醒した人間が、信者を集めたり書物を著すことで、何がしかの影響は持つだろう。しかしそのことで、餓死しかかっている子どもたちの生命が救われるわけではないし、内戦に明け暮れるく国々のテロ行為や軍事行為が終焉するわけではない。

宗教家はなにかというと、聖典や教祖の著作を引用してくる。したり顔で、啓蒙するけれど、果たしてその言葉が生きているのだろうか。僕はいつも疑問に思っていることだ。

人間は身勝手で愚かな存在だと認めればいい。神の子などではない。だから必死に自分たちがやらかしている過ちに気づいて直さなければならない。いい加減に神様を持ちだして、自分たちの存在をカモフラージュするのはやめた方がいい。僕はそう思っている。

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