遠い記憶
都会の中の喧騒は、孤独な人間にとって面倒のない隠れ家だ。時として流れ行く群衆の動きに身をまかしていれば、それだけで過ぎて行く一日をごまかせそうな気がする。
今日は誰に声をかけただろう、誰に声をかけられただろうと考えてみるのだが、ポケットの中に入っているティッシュと怪しげなチラシだけが戦利品で、僕の一日は、感情を伴った声も、感情を伴った耳も必要としない単純な静寂で終って行く。
私鉄電車の改札口に、缶コーヒーを片手に佇んでみる。もちろん僕を目当てとした人間がやって来るわけではないけれど、電車がホームに着くたびに流れてくる人波の慌ただしさが、ある種の緊張感を僕に与えてくれて、そこに立っている自分という人間の存在感を僕に思い出させてくれる。
青春時代というものは実にざっくばらんとしており、その中で平衡感覚を保とうとすると、突然目眩のようなものに襲われ、たじろいでしまう。もう僕にとっては、縄文時代のような遠い昔の時間なのに、ふとした瞬間にあの当時の生々しさが蘇ってきて、心臓の鼓動が圧迫される。
人生をやり直せるとしたら、いったいどこへ戻るべきなのだろうか。たいていの人間が考える心理パズルだ。
人生とは後悔のためにあるのじゃないかと、自分の過去を振り返った僕は、焦燥感にさいなまれる。特に若い頃の精神は、若い肉体に精神をたぶらかされ、理性を失って暴走する。その結果が今の自分だと思うと、赤面このうえない。
時代時代を選択してきたのは間違いなく自分だ。怠惰を貪った自分も、ほんの少し頑張った自分もいるのだけれど、いつも何かに急かされてきたような気がする。
生きることにだろうか?
きっとそうに違いない。
都会の雑踏の中で見た夕日も、故郷の山に沈んでいく夕日も、僕の視野に飛び込んでくるその光は、不思議と何も変わらない。きっとあの改札口で目にした人波も、同じなのではないだろうか。
消えて行った多くの夢の残像が、僕という人間の過去を恋しがっているのだろうか。僕の届かなかった想いが、遠い記憶の中で揺らめいている。
ちょうど息子たちは、今、僕の遠い記憶の自分と同じ年代を生きている。青春の記憶のバトンタッチが、突然現実化して僕の前に現れているかのようだ。
後10年、もしくは運が良ければ20年後くらいに、僕という存在は消えていくだろう。僕の遠い記憶がそっと抱かれたままで・・・・。
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