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2014年5月 9日 (金)

母禮(モレ)とアラハバキ神

モレ(母礼)(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))とは、アテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)。アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。磐具公母礼(いわぐのきみもれ(ウィキペディアより)

蝦夷の英雄阿弖流為(アテルイ)と共に国府軍と戦った母禮(モレ)の住居跡と言われる場所が、奥州市前沢の束稲峰の北東にある。

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先日水沢で卓球大会があって、コーチで出かけた時に、初めて足を運んでみた。自称宇宙人である僕は(・・笑い)、それらしき場所には、ある種の反応を呼びこむセンサーのようなものがあるのだが、残念ながら母禮屋敷跡にはこれと言ったものを感じることがなかった。

残念な気持ちで帰ろうとした時である、屋敷跡の前方に、道を挟んで巨大な置き石が目に飛び込んで来た。

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風雨にさらされ苔むしているが、間違いなくアラハバキ神の石座である。母禮の村の人々は、この石座を神坐に据え、母禮を中心に結束を固めていたに違いない。

もちろん文献にはこの岩のことは何も残っていないだろうけれど、久しぶりに僕のセンサーがこの石座にビシバシ反応した。伝説のごとくこの場所が、母禮の住居跡だったのではないだろうか。

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コメント

磐具公母禮の居所は現在の宮城県伊具郡だと推測されます。漢字表記は万葉仮名であり、磐具と伊具は発音上共通点が見られます。
大墓公阿弖利爲の居所は宮城県白石市越河馬の墓と推測されます。
馬ノ墓とは駒の墓、駒は高麗であり、渡来系移民の墓所であったと考えられます。
坂上田村麻呂の父は坂上刈田麻呂であり、自から祖先を渡来系人であるとしています。刈田麻呂の先祖は刈田郡付近を入植地とした人々と考えられます。
陸奥国府を多賀城とする説がありますが江戸時代の創作です。
多賀柵が多賀城となったと推定されます。多賀柵は賀美郡に在った事は続日本紀、天平九年四月十四日から天平九年四月廿五日までの記述を詳しく読み解くと多賀柵は賀美郡にあったことが判ります。伊治公呰麻呂の反乱で伊治城から多賀城へ逃げ込んだ国司等は間もなく多賀城から脱出しました。
多賀城が賀美郡に在ったなら伊治城にほど近く続日本紀の記述と矛盾しません。現在多賀城跡と称する場所は賀美郡ではありません。江戸時代に発見されたとする多賀城碑文は続日本紀と合致しません。多賀城跡でもない場所を多賀城跡とするために創作された贋物です。
呰麻呂の乱で逆賊は現在の宮城県南端の刈田、伊具付近まで押し寄せてきたのです。その逆賊が更に南下するのを防ぐため国見に防塁が築かれたのです。
吾妻鑑は藤原泰衡が俄に築いたと記しますが、地形上矛盾点が多く創作文と考えられます。また、多賀国府とも記されていますが発掘調査で該当時代の遺構は検出されませんでした。多賀城跡でもない場所を多賀国府跡と贋多賀城碑を根拠にしたのですから当然、該当時代の遺構は存在しません。
平泉藤原三代の屋敷跡は焼かれて土はかり残ったとあります。礎石がないなら掘っ立て柱の地中部の痕跡が大量に残るはずです。それも検出されないばかりか折敷と呼ばれる木工製品のかけらが焼けずに出土します。科学的にあり得ない事だとおもいます。
平泉藤原氏説の江戸時代に創作された説で歴史資料上の根拠はありません。
文治二年六月小廿一日の頼朝奏上によれば凶徒(藤原泰衡)の所帯跡に地頭が置かれ、所帯跡は地頭に与えられたはずです。
陸奥国信夫郡鳥和田村の地頭に任じられた工藤氏(二階堂氏)は鎌倉幕府の重鎮でもありました。室町時代にも鎌倉府方についておりましたが鎌倉府滅亡と共に行方不明、後に須賀川を支配したと考えられます。

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