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2014年5月14日 (水)

ボヤキ節

50を過ぎたあたりから、人生の苦悩が減ってきた。年をとって諦観が身についてきたわけではない。見栄をはることもなく、自然体でいられることが楽になってきた。

確かに社会に対する不満や、自分自身のパーフォーマンス能力の低下に対する不安というのもあるのだけれど、自分は自分だという開き直りが図々しくも出来てきた。

若い頃、死ぬことが怖かった。一度きりの人生の中で、いかに自分の軌跡を残そうかと焦っていた。

今は違う。人生に終わりはあっても、生命に終わりはない。良くも悪くも魂は続いていく。宗教も、信仰する神さまも関係ない。そんな考えに僕は勝手にたどり着いた。

言ってみれば、偶然という必然の中で、僕らは生命をシクシクと維持して行く存在だ。

僕は別に悟ったわけではないけれど、生きて行くことにそれほどこだわりはない。やって来るちょっとした不都合や哀しみや苦しみは、角度を変えてみればそれほど深刻なことじゃない。

金持は羨ましいけれど、別にそれだけのことだ。お金があって幸せであればそれでいいだろうし、貧乏暮らしでも愛情いっぱいの暮らしならばそれでOKだろう。

人に迷惑をかけない人生なんて、はなっからない。年をとって家族や病院の世話になって死んでいく。それはそれで全然いんじゃないかな。お互いさまだ。

頭がいいことは生きて行く上で確かに得をする。肉体を酷使しなくても、お金を稼ぐ手段が増える。でも身体を使う仕事が大好きだと言う人も多いのだ。勝手に優劣はを決めるもんじゃない。

学歴は大切だと言う人がいる。最低大学は出ておかないと、という言葉を聞く。4年間で学ぶことなんてたかがしれている。そんなものにこだわっていると、人生の本質を見失ってしまう。

田舎暮らしはいい。誰も学歴なんかにこだわらない。「さすが大学を出ている人は違うね」などとのたまうが、本心ではそんなことをこれっぽっちも思っちゃいない。みんなたくましく生きている。ナイスだ。

話はぶっ飛ぶけれど、塾の前の遊歩道が整備され、磐井川の土手を一関一高の生徒や一関修紅高校の生徒が部活でダッシュして行く。昨日その光景を見ていたら自分もダッシュしたくなった。

さすがに高校生が走っている中を、ハゲた中年オヤジが走るのは気がひけるので、日が沈み、生徒たちがいなくなってから、ナイキのランニングシューズを履いて、坂道をダッシュしてみた。2回ほど。

それが意外と走れたのである。きっと先日の日曜日、午前中ずっと田植えをしてドロの田んぼの中を歩いたことで、足腰が鍛えられたのだと思う。実にラッキーなことだ。

塾に戻ると高校生が待っていた。土手をダッシュしてきた話をすると、ちょっと呆れた顔で僕を眺めていたが、まあドンマイだ。

運命は過酷だと思う人に過酷な運命が忍び寄って来る。楽しい人生も苦しい人生も本来はない。価値観を植え付けられる前に、自由に想い、自由に飛翔しようぜと僕は思う。

時にバカバカしいほど堕落しきった社会の中で、時に利己的な塊が転げ落ちてくる社会の中で、面白おかしく生きることも、粋じゃないだろうか。

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