3500稿目のつぶやき
人は漠然と存在することは出来ない。やはり存在理由というものはあるはずだ。この地球という星で展開していく日常の生活が、何のためにあり、何のために過ぎて行くのかを考えずして、人生の本質は語れない。
朝目が覚めて、そして1日を終えるまで、僕らはどれくらい自分を意識するだろうか。自分がいることで織りなされていく日常をどれだけ認識できるだろうか。大げさに言えば、毎日世界を創造している存在であることを自覚できるているだろうか。
言葉や想いが自分のまわりを構築していくダイナミックなパワーをないがしろにしては、架空の世界に生きてしまい、現実を生きていくことが虚無になってしまう。
宗教やスピリチャルな世界を堪能することもいいかも知れない。しかし自分をゆだねてはいけない。自分を信じる力を補ってくれる精神世界の産物ならまだしも、自分の精神や信頼する力をゆだねてしまっては、創造力が欠如する。
学問だって同じじゃないだろうか。自分の価値を再認識していく学びならば、状況判断が研ぎ澄まされて行くだろうけれど、物質的な利益ばかりを考える学問思考は、やがて優しさが失われ、他者と共有すべき叡智が剥奪されていく。
一流企業のトップを目指している人も、芸術家も、サラリーマンも、フリーターも職業に貴賎はない。その人が作り出していく人生に勝ち負けなどない。あるとするならば、エネルギーの差だ。演技力の質と言っても良いかもしれない。
知らず知らずのうちに、僕らは人生を演じている。その配役を決めているのが自分自身だということも知らずに。人生の脚本を客観的に眺められる人間と、そうじゃない人間の差が、人生の成功感の差になって行くような気がする。
悲劇を演じることに慣れてはいけない。王様であることに慣れてはいけない。必ず僕らは素の自分に還って、台本を読み直す必要がある。
暴君であることの感情の流れ、奴隷的気分であることの感情の流れ、幾度かの人生を繰り返してきた僕らは、多くの感情に支配されてきた。その理由が何なのかを実は僕らの本質は知っているのだけれど、忘却を強いられてしまっている。
性欲と支配欲を愛だと勘違いする人がいるように、妥協や諦観を忍耐だと思い込んでいる人たちが多い。彼ら彼女らは何に支配され、自由を抑制されてしまっているんだろうか。
我々は神によって踊らされている存在では決してない。他人によって支配されるべき存在でもない。限りなく自由を所有する存在物だ。なのに多くの人達が不自由を感じている。学校でも職場でも、そして家庭でさせも。
それは自分の力を信じないで頼ってしまうからだ。お金に頼ってしまうから、お金がなくなると不安が拡大する。神様に頼ってしまうから、願いが叶わないと落胆してしまう。そして人に頼るがゆえに裏切られると、呪詛が生まれる。
学歴も、容姿も、そして社会的地位さえも、死を目前とした時には全て我々は平等だ。生まれて、そして死んでいくということに於いて。
人生は苦悩を演じるためにあるのではない。嫉妬や自慢のために生きているわけでもない。存在を楽しむためにあるのじゃないだろうか。おもいっきり自分を表現するために、人生を楽しむことが僕らの人生じゃないだろうか。
自分を深く見つめて見れば、さりげない自分の感性が、自分だけの宝石だと分かるはずだ。いつでも遅くはない。自分を見つめて見よう。そして幸福で微笑んでいる自分をイメージしよう。必ず幸せがやってくる。
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