愛ならばどうするか
小学生の頃多数決が大嫌いだった。その指向性は今も続いている。
多くの人が賛成するから正しい思うことは、おかしいとずっと思ってきた。自分が正しいと思うことでも、まわりにそぐわないことだから我慢しなければならないという精神性は、人間の自由を損ねるものだと僕は思っている。
頑固だとか非常識だとか、世の中は後ろ指をさして来るだろうけれど、正しいと思う根拠がしっかりしているのならば、自分の意思を押し通すべきだと思う。
チームワークや協調性という言葉は、妥協のためにあるのではない。進歩のためにある。変革がいいとか革命がいいとか言っているのではない。多数決という慣れ合いが嫌いなのだ。
自己の利益を優先する多数決があっちでもこっちでも可決されれば、人生の本質は消えていく。
みんながやっているから正しいと思うのは幻想だ。たった一人の声が、真実を言っていることだってある。
キザな言い方かもしれないが、『愛ならばどうするか』その判断で思考し行動すれば、僕ら人間はこの地球で存続し、繁栄して行くことが出来る。
敎育は最大公約数的人材を育てるのではなく、人間の個性をきらめかせることにあると僕は信じている。全てが人間の中には備わっている。それを思い出させるのが敎育じゃないかと僕は思うのだけれど、やはり少数意見だろうか。
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